うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Autopsy for an empire』Volkogonov

 歴代指導者を通して、ソ連の最高権力を研究する本。
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 導入 指導者たちの道
 レーニン
 レーニンは共産主義を自己の政治闘争に用いることで、社会主義を建設した。この本では、かれは政治闘争にのみ執着し、他のあらゆる知識や文化を軽蔑する人間として描かれている。
 レーニンの同志たちのほとんどは、彼の死後失脚し、射殺された。ガネツキーとパルヴス、チチェーリンは、革命勢力に対するドイツ帝国の支援をとりつける上で重要な役割を果たした。チチェーリンは不遇のまま死に、ガネツキーはスターリン体制下で過酷な拷問を受けても口を割らずに殺害された。
 レーニンは世界革命に執着し、各国の革命家や共産党を援助した。この方針は彼が死ぬまで続いた。
 政治生活の裏で、彼は共産党員の女と浮気していた。
 あらゆる道徳よりも目的を優先する思考、政治闘争や粛清に死を用いる方針は、レーニンの時代に確立された。市民の自由は資本主義とブルジョアの妄言として、その後顧みられることがなくなった。
 スターリン
 スターリニズムを成立させたのは、独裁者と治安機関による抑圧だけではない。共産主義スターリンへの、国民の忠誠もまた体制存続の要だった。
 神学校での10年間の教育と、監獄と放浪の日々は、彼に教条的な思考を植え付け、自己防衛に長けた人格と、党のリーダーシップに対する嗅覚を形成した。
 スターリンはあくまで民主主義的方法によって指導者に選ばれたという名目を保持した。スターリンの精神的な父はレーニンであり、レーニンのつくったシステムの完成型がスターリニズムである、と著者は書く。
 嘘と力は全体主義の要である。スターリンはレーニンから、敵か味方かの二元思考、不寛容、テロに訴える方式、等を受け継いだ。
 スターリンは各国の革命家の表敬訪問を受け、援助を行った。かれのもっとも大きな仕事は、対独戦争と朝鮮戦争だった。朝鮮戦争については、毛沢東と協力し、いかに北朝鮮を導くかについて方針を定めた。
 かれは別荘で発作を起こし死んだ。
 フルシチョフ
 かれはベリヤを排除するためにスターリンの手法を用いて権力を掌握した。つまり、でっちあげ、不当逮捕、速やかな処刑によって。
 かれは勇敢であり、自分たちも墓穴を掘る覚悟で、スターリン批判を行った。スターリン主義は個人崇拝であり、レーニン主義からの逸脱とされた。
 フルシチョフスターリニズムを批判したが、その根幹であるレーニンと、体制そのものには手をつけず、むしろ神聖化した。農業の失敗、核開発の失敗、潜水艦の沈没といった失敗については、歴代の指導者と同じように、隠ぺいと秘密裁判を利用した。
 かれは演説が得意で、毎日テレビの前で演説した。
 フルシチョフは部下や国の制度を振り回し、付け焼刃の改革を行い、外交の場では粗暴にふるまい、同志たちには厳しくあたった。このため人望を失い、馬鹿にされる対象となった。フルシチョフに対する工作は2回行われ、ついにかれは失脚した。
 ブレジネフ
 かれは指導者の中でもっともわかりやすい人物である。かれは凡庸で、調和を重んじる人間だった。
 停滞の時代とは裏を返せば安定と調和の時代である。ブレジネフの代にソ連の栄光は頂点に達した。かれは調和を重んじ、自己主張をせず、アンドロポフ、チェルネンコら幹部の操り人形としてうまく機能した。本人は、ほとんど本を読まず、虚栄心を満たすだけの人間だったと評価されている。
 着任間もなく、チェコの自由化政策を弾圧し、また、死亡直前にはアフガニスタン内戦に介入し、ソ連を失敗戦争にひきずりこんだ。
 生前からブレジネフは市民の笑いの種にされた。
 アンドロポフ
 在任15か月
 歴代指導者の中でも最も知性的であり、著者は彼を正統の知識人、インテリゲンツィアと評価している。KGBのトップとして、ブレジネフよりも国家機密、ソ連の真の姿を知っていた。
 かれは知的ではあったが、正統のマルクスレーニン主義者であり、体制そのものに欠陥があることを認識できなかった。西側メディアからは「自由主義チェキスト」と呼ばれたが、主な政策は、規律の引き締めや抑圧だった。
 アフガニスタン戦争の継続、レーガンに対抗しての軍拡競争、大韓航空機爆破事件等、政策においては芳しい効果を上げることができなかった。この事故について、犠牲者への言葉が中央委員会から発せられることはなかった。
 彼は強い意志の持ち主であり、健康を害したのちも病院のベッドから指揮をとった。
 "The Boeing was symbolic of the failure to purge the system of its Bolshevik ways, ways that were base on class cruelty, confrontation and the cultivation of the lie".
 チェルネンコ
 彼は完全に古いタイプの人間であり、ソ連の社会システムの崩壊をまったく理解することがなかった。にもかかわらず、彼の治世は変革の端緒となった。
 チェルネンコは何も残さなかった。死後、彼の金庫を開けると大量の札束が見つかり、一同は首をかしげた。チェルネンコの屍体は赤の広場、ブジョンヌイの横に埋められた。
 彼の演説はほとんど聞き取れず、理解できなかった。人びとは停滞に飽き飽きしていた。
 ゴルバチョフ
 彼はロシアがこれまで持っていなかったもの、自由を達成しようとした。自由と民主主義を達成することによって、レーニンマルクス主義の原点に立ち返ることができる、と信じていた。
 ペレストロイカの号令によって彼は各共和国の自治を尊重した。また、アフガニスタンからの撤退を決定した。しかし、自由化を推進することによってソ連は空中分解していった。
 かれには人間的魅力があり間もなく西側諸国の支持を得た。その反面、ゴルバチョフの支持率は下がっていった。
 ゴルバチョフは自らの腹心として、元気で快活なエリツィンをモスクワの幹部にとりたてた。やがてエリツィンゴルバチョフに反抗し、2人は激しく対立するようになった。
 ゴルバチョフは自由化・民主化による社会主義の再興を目指していた。エリツィン社会主義システムは廃止するしかないと考えていた。
 チェルノブイリ事故が起こった際には、当初沈黙していた共産党を叱咤し、ただちに声明を発し、国際原子力機関の指導に沿って対策を進めるよう指示した。
 誠実なイメージのあるゴルバチョフだが、独ソ不可侵条約の時代に起こしたカチンの森事件については見て見ぬふりをした。これは独ソが同時にポーランドを侵攻した際にソ連が起こした、ポーランド校下士官兵に対する虐殺事件である。
 エリツィン共産党を脱退した。また、バルト3国やドイツ等、周辺諸国が分離の動きを見せたとき、当初は治安機関によって弾圧が行われたが、ゴルバチョフは黙認するようになった。KGBはもはやソ連では必要とされなくなった。
 1991年のクーデターは、保守派のヤナーエフらがふたたび古い社会主義権威主義を取り戻そうと起こしたものである。しかし、エリツィンやモスクワ市民の支持を得られず、失敗した。
 クーデター後、ゴルバチョフソ連共産党の活動を停止し、12月にソヴィエト連邦大統領を辞任した。こうしてソ連邦は崩壊した。
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「嘘の積み重ねによる体制」、「一方で手を動かし、他方で別のことを考える」というソ連社会の習慣が繰り返し出てくる。

 

Autopsy For An Empire: The Seven Leaders Who Built the Soviet Regime

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