「法の精神」
1748年に出版され、政治における権力分立の重要性を唱え、後の政治思想に影響を与えた本。
1 法について
法とは事物の本性に由来する必然的関係である。物理的な法と同じく、正義の法や衡平の法も、人間以前に存在する。
例えば、社会の掟に従うこと、感謝すること、自らの作り主に従うこと、災いには災いをもって報復することなどがあげられる。
しかし、人間という知的存在は有限であるため、法に対し誤りをおかすことがある。
このため、神は宗教の法をもって、哲学者は道徳の法をもって、立法者は政治法・市民法をもって人間を義務に立ち返らせるようにした。
自然法とは、この3つの法に先立つ、人間の原始状態における法である。ホッブズの考えとは異なり、モンテスキューにおける人間の自然状態(自然法)は「お互いの恐怖に基づく平和」であり、やがて社会生活への要求に結びつく。
社会の成立とともに個人及び集団間の戦争が始まる。よって、国際法、公法(国内の政治法)、私法(市民法、市民間の法)が生まれる。
公法・私法は、民族固有の性質により異なる。自然条件や生活様式、政体の自由度、宗教、富、規模等によって、適切な法は変わる。
これが「法の精神」であり、「法律が事物ともちうるもろもろの関係」である。
2 政体の本性と法について
政体には共和制、君主制、専制の3つがある。共和制は人民主権を、君主制は君主と制定法による統治を、専制は1人が意思と気まぐれにより統治する政体をいう。
共和制には、民主制と貴族制が含まれる。
民主制において、執政官や元老院は、人民が選んだものでなければならない。しかし、人民の間に、富や階級に基づいて区別することが重要となる。投票法も、民主制の基本法である。
貴族制では、主権は一定数の人びと(貴族)の掌中にある。貴族制では、貴族の数が多く民主的で、また人民が少数かつ抑圧されない状態が最良である。
共和制における独裁官は、君主を越える権限を持つが、その任期は短期間でなければならない。
君主制は、君主が基本法により統治する政体であり、貴族の存在(中間身分)が前提である。専制に移行しつつある君主制では、宗教権力が抑止のために有用である。
また、君主制では、法の寄託所(高等法院など)が必要である。
専制においては、君主が宰相をたて、かれにすべての統治を一任する例が多い。
3 三政体の原理について
原理とは、政体の本性を動かす人間の情念である。法は、本性と原理とに関連する。
民主国家の原理は「徳性」(祖国への奉仕、利益の擬制、栄光の希求、自己の放棄)である。貴族制の原理も「徳性」だが、民主制ほどには要求されない。よって、貴族制の魂は、特性に基づく「節度」である。
君主制においては、徳性は条件ではないため、通常、欠落している。
――無為徒食の中の野心、尊大さにひそむ低劣、働かずに富もうとする欲望、真理への嫌悪、へつらい、裏切り、不実、あらゆる約束の放棄、市民の義務の軽蔑、君主の徳性への恐怖、その惰弱への期待、そして、それにもまして、徳性に向けられるたえまない嘲笑が、大部分の宮廷人の、時と所をこえて、きわだった特徴をなしていると思う。
――もし、人民の間にだれか不幸な正直者がいたら、君主は、かれを登用しないよう注意せねばならぬ、とリシュリュー枢機卿はその政治的遺言の中でほのめかしている。
君主制の原理は「名誉」である。名誉は偏愛と寵遇を求めるため、貴族たちは君主の下、名誉のために公益に奉仕する。
専制においては「恐怖」が必要である。専制においては、高官のみが恐怖に支配され、人民はかえって平和を享受することもある。
――そこでは、人間の宿命は、けもののように、本能、服従、処罰である。
結論としては、共和国においては、人びとは有徳でなければならない。
4 教育の法と、政体の原理との関連
教育は、各政体の原理に基づいていなければならない。
君主制……高貴、率直、礼儀正しさ。徳は自分に対して負うものとなる。ただし、すべての徳性は名誉の望むものとなるため、真実や真の礼儀正しさは捻じ曲げられる。
専制……恐怖と無知が不可欠である。よって教育は不要である。
――君主制において、教育がもっぱら魂を高めることに努めるのと同じように、専制国家においては、それはもっぱら魂を低めることしか求めない。
共和制……政治的徳性、すなわち法と祖国への愛を教育しなければならない。自己利益よりも、公共の利益が優先される。
5 制定法と、政体の原理との関連
民主制における特性は、祖国愛である。それは平等、質素、奉仕の追求となる。こういった精神を確立するためには、まず法が平等と質素を確立していなければならない。
モンテスキューは、商業について、資産を分割しゆたかな者も働く必要のある状態にすべきだと主張する(富の分配)。
専制において国家の保全とは、君主の宮殿の保全である。専制の目的は静寂であり、敵に占領されんとるする都市の沈黙である。
専制は最悪の政体で、人間の本性には反している。しかし、温和な政体の確立には大変な努力が必要となるに対し、専制は無為と怠惰によって一様に出現する。
6 市民法及び刑法など
専制や苛烈な政治体制下ほど刑罰は厳しい。すぐれた立法者は、刑罰を予防や更生に用いる。
――極端に幸福な人間と、極端に不幸な人間は、ともにひとしく過酷となる傾向がある。
刑罰は罪の重さに正しく比例している必要がある。歴史上、奇妙な刑罰不均衡の例が示される(大臣への悪口は処罰されるが、王への悪口は処罰されない等)。
拷問は文明化した国では不要である。
7 奢侈と女性の地位
君主制、専制においては奢侈は不可欠である。共和制はその逆である。
――共和国は奢侈によって終わり、君主国は貧困によって終わる。
モンテスキューは、女性を奢侈と規律違反の原因とみなす。
8 原理の腐敗について
共和制原理の腐敗……平等精神を失うか、過度の平等を求め、執政官、元老院、老人、父に対する尊敬が失われること。
――女、子供、奴隷は、だれにも服従しないだろう。
堕落した人民は専制君主、僭主を呼び込むか、または壊滅する。
真の平等の精神とは、同輩に服従し、同輩を支配するようにすることである。
――自然状態では、人間はたしかに平等なものとして生まれる。だが人間は、自然状態にとどまることはできないであろう。社会は平等を失わしめる。そして人間は法によってのみふたたび平等となる。
人が執政官として、元老院として、裁判官として、父として、夫として、主人として平等を求めるようになると、それは破滅にいたる極端な平等精神である。
――……共和国はなにかをおそれていなければならない。……不思議なことだ、これらの国家は安全になればなるほど、静水のように腐敗しやすいのである。
君主制の原理は、君主が諸団体や都市の特権を奪うときに腐敗する。また名誉観念が失われ卑劣漢が権勢をほこるときに腐敗する。
共和国の本性上、小さな領土しか持てない。巨大な共和国は富の不均衡を生み、人心から節度が失われる。公共の福祉は軽視される。
一方、君主制は中程度の規模が、専制は広大な領土が適切である。
9 防衛力と法
国土が広がれば広がるほど、防衛は困難になる。
10 攻撃力と法
交戦権に続く征服権について。モンテスキューは、交戦と征服を国家に与えられた権利と考える。
――征服とは獲得である。獲得の精神は、維持と利用の精神を伴うのであって、破壊の精神は伴わない。
征服は権利だが、殺戮と隷従は認められない。隷従は、維持に必要な限りにおいて、過渡的に認められる。
[つづく]