うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『テイクダウン』下村努、ジョン・マーコフ

 サンディエゴのスーパーコンピュータ・センターで働くコンピュータ科学者の下村(Tsutomu Shimomura)は、自宅のPCを悪名高いハッカー、ケヴィン・ミトニックに乗っ取られたことに気が付く。

 下村は弟子のアンドリューや、コンピュータ業界の友人たちとともに、ミトニックの侵入経路や痕跡を確認し、データ詐取の被害状況を調査する。

 ミトニックは電話交換システムに侵入し不正に利用する、ソフトウェア会社のコンピュータからデータを盗む、技術者らのコンピュータのデータをのぞき見する等の犯罪を繰り返しており、逮捕歴もあった。

 下村らはFBIと協力しミトニックの居場所を突き止めようとするが、官僚的かつ、IT知識のないFBIと度々衝突する様子が書かれている。

 当時の合衆国のITインフラや、電話交換システムに侵入するクラッカーたちのいたずら、システムへの侵入方法など、細かい技術情報のすべてを理解することは難しい。

 しかし、犯人を追い詰めていくという大筋を追うことで、事件の概要を知ることは可能である。

 

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 80年代後半には、反社会的なクラッカーたちが跋扈する基盤が合衆国には整備されていた。

 下村ら技術者やハッカーたちは、インターネットを通して他人や企業のコンピュータに侵入する。このときに用いられるのはUNIXの知識や、システムの脆弱性情報である。

 ミトニックとその仲間たちは「ソーシャル・エンジニアリング」にも長けており、電話で新入社員をだましパスワードを聴きだしたり、役員のふりをしてデータを詐取したりする。

 ミトニックは携帯電話のソース・コードに執着しており、下村も携帯電話ソフトウェア開発に関係していたためにクラッキングの対象となった。

 本書の出版から20年ほど経ち、携帯電話がインターネットインフラの基盤となったことを考えると興味深い。

 当時はモトローラ、スプリントなどともにオキ(沖電気)も最新の携帯電話プログラムを開発していた。

 

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 西海岸の生活……レストランやカフェ、ダイナーでの食事の様子がよく登場する。

 

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 著者の下村努は日本人の子(父親は科学者の下村脩)として生まれたが、アメリカで育っており、国籍もアメリカである。

 かれはコンピュータの研究にとりつかれ、飛び級後、大学にも入るが、学校の授業には関心が持てず中退した。学歴は高卒? だが、IT技術者としての能力を評価され、大学の研究施設や、合衆国のロスアラモス研究所で勤務している。

 アメリカの名門大学は年間数百万円以上かかり、また入学するにも生まれや親の収入・肩書が重視される。学歴・階級の壁はおそらく日本よりも高いと思われる。

 一方で、コンピュータ業界でよく見かけるように、肩書や学歴にこだわらず、柔軟な採用体系によって能力のある人間を活用する面もある。

 

  ***

 本書は下村の視点から書かれているが、ミトニック自身が書いた本も存在する("Ghost in the Wires")。お互いに主張が異なるため、ミトニック側の本も読むのが公平だろう。

 本書に虚偽の記載が多く、また下村らの捜査における合法性があると指摘した本として、"The Fugitive Game"がある。

 米Amazonでは、本書の評価が非常に悪いので笑った。一方、ミトニックの本は大変売れているようでレビュー数も多い。

 

 後輩のアンドリューやFBI捜査官たちに対する批判(かれらは使えない)は辛辣である。

 本書では悪役扱いのケヴィン・ミトニックは、今はセキュリティの専門家として活躍している。 

テイクダウン―若き天才日本人学者vs超大物ハッカー〈上〉

テイクダウン―若き天才日本人学者vs超大物ハッカー〈上〉

 
テイクダウン―若き天才日本人学者vs超大物ハッカー〈下〉

テイクダウン―若き天才日本人学者vs超大物ハッカー〈下〉

 

 

『韓流スターと兵役』康熙奉

 在日韓国人の著者が、韓流スターのファンに向けて、兵役制度とその実際についてわかりやすく説明する。

 わたしは映画で観たウォンビンイ・ジュンギ、有名なペ・ヨンジュンくらいしか知らないが、芸能界と兵役との関わりは、日本にはない独特の要素である。

 兵役制度だけでなく、韓国社会の特徴についてもいろいろと考えさせられる点がある。多様性の欠如、個人よりも共同体を重視する傾向は、日本の社会にも通じる。

 兵役は、軍隊と国家が、人間の人生に非常に大きな影響を与える制度である。それだけに、国家とは何なのかについて考える機会も、必然的に多くなるのではないか。

 

  ***

 1 兵役の仕組み

・韓国男性は、高校卒業後兵役対象者となる。29歳までに兵役の義務を果たさなければならない。

・担当部署:兵務庁

・軍種:

 陸軍 21か月

 海軍 23か月

 空軍 24か月

 海兵隊 21か月

・兵役の種類

 第一国民役

  現役

  予備役:除隊後

  補充役:警察、消防、企業等での代替勤務

 第二国民役:現役服務は無理だが戦時に支援業務

 兵役免除:身心、外国在住、扶養家族、戦死した親等

 再検査対象

・兵役プログラム

 現役軍務

 4年間の動員訓練

 2年間の郷防訓練

 民防衛訓練(40歳まで)

・代替服務制度

 義務警察

 社会服務要員

・休暇の種類

 年暇

 公暇:けがや病気

 請願休暇:冠婚葬祭

 特別休暇:表彰や慰労

 

  ***

 2 芸能界と兵役

 兵役は男子の義務だが、実際は行きたくないと思っている人が多い。そのため、兵役逃れの問題に国民は敏感である。

・2000年代に芸能人の兵役逃れが問題となった。

・軍にいながら芸能活動を行える芸能兵制度は、不祥事が続き廃止となった。

・五輪メダリストやスポーツで優秀な若者は、国威発揚に貢献しているため、兵役を免除される。もしくはスポーツ部隊で練習を続けられる。

 2年間のブランクはアスリートにとって致命的となるからである。

・一方、芸能人はその個人に注目が集まり、直接、国家への貢献となるわけではない、とみなされている。

・現実として、もっとも兵役逃れが多いのは特権階級……財閥の家族、政治家とその家族、軍高官の家族などである。

・財閥経営者二世の5割が兵役免除であり、また政治家の息子の免除率は一般社会の4倍以上高い。

ウォンビンは入隊したがけがで途中除隊し、反省のため3年間程度活動を自粛した。

・兵営における暴力、いじめ、不祥事はいまも健在であり、国防省はこうした問題の解決と、軍のイメージアップに努めている。しかし道のりは長い。

・朝鮮王朝時代、芸能人は最下層の身分だったため、かれらをさげすむ風潮がまだ一部には残っている。

 

 ――韓国ではまだまだ、国や地域や家などの集団の価値が個人よりも上であると考える傾向が残っており、芸能人のように個人で目立つ存在を寛容にみる視線は少ないといわざるをえません。

 

 よって、芸能人は「公人」として、一般人と同じ義務を果たすべきであるとして、兵役に関して厳しい視線が注がれている。

 

  ***
 3 軍隊生活

 徴兵検査後、志願によって空軍、海軍、海兵隊を選ぶこともできる。

 新兵訓練所では携帯電話は禁止される。

・訓練内容

 小銃の操作と管理

 射撃予備訓練

 警戒勤務・歩哨

 救急方法

 催涙弾対処

 手りゅう弾

 射撃訓練

 戦闘訓練

 野営訓練

 行軍

・給食の質は近年徐々に向上している。

・階級

 二等兵 3か月

 一等兵 7か月

 上等兵 7か月

 兵長 4か月

・素直ではきはき、謙虚、気が利く人間が生き延びる。傲慢な人間、学歴や生まれを誇示する人間はいじめの対象となる。

兵長職業軍人である将校とうまくやっていかなければならない。

・配属先によって勤務の厳しさは変わる。

 国境地帯近くの僻地は厳しいが、都市に近ければまた状況は変わる。

・軍隊は階級と年次が絶対の世界である。

 

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 4 兵役を前向きに考える

・韓国軍は2015年時点で63万人だが、2022年までに52万人に減らす計画である。

・スターにとって、愛国心がないと思われるのは致命傷である。

・近年の芸能人は兵役に積極的である。2年間のブランクを克服することができる。

・若者はN世代(ネットワーク世代)と呼ばれ、また「サンポ世代」(三放……恋愛就職・結婚・出産を放棄せざるをえない世代)とも呼ばれる。

 

 ――韓国は多様性があまりない国です。社会が誰にでも、1つの価値観を押し付けようとする傾向が強いのです。

   それだけに、韓国人は自分の主張がはっきりしているわりには、人の目を気にしながら生きています。

 

・韓国社会の強みは、エネルギーに満ちていることと、スピーディであることである。

・軍は、兵役期間中の自己開発プログラムに力を入れている。

・俳優のヒョンビンは、精鋭部隊である海兵隊を志願し無事服務した。かれはその後のキャリアで筋肉や体力を生かした役柄にも挑戦している。

 

  ***
 5 その他

海兵隊出身者は一目置かれ、就職でも有利になる。

・公共服務は一段下とみなされ、年配者から渋い顔をされることがある。

・居酒屋で一番盛り上がるのが兵役時代の話題である。

・配属先はコンピュータで無作為に決められる。任地によって厳しさに差があるため、公平を期すためである。

・今後、社会服務要員を増やすべきである。兵器のハイテク化により兵隊の必要数は減っており、また有能な若者を適職につかせないのは大きな損失である。

・兵隊は給料をPXのお菓子に使うことが多い。

・夜中の警戒勤務は寒くて眠くてつらい。

・休暇中は軍服で外出しなければならない。

・スターが極端ないじめにあうことは考えにくい。

 

 ――自慢話になるじゃないですか。除隊して社会に復帰したときも、『スターの〇〇と同期になって一緒に軍務をこなしたよ』……

 ――それに、スターは目立ちすぎる存在です。そんな人をいじめたら、悪評まみれになってしまいます。だれも損なことはしないでしょう。

 

  ***

 ――まだ10代の未成熟な年ごろです。そんな時期から、自分が国防の盾にさせられることを自覚せざるを得ないのです。厳しい現実です。

   そんな境遇に置かれた人は、日本では1945年8月15日以降はいません。

 

韓流スターと兵役 あの人は軍隊でどう生きるのか (光文社新書)

韓流スターと兵役 あの人は軍隊でどう生きるのか (光文社新書)

 

 

 

『The Indian Mutiny』Saul David その4

 15 反動

 東インド会社マドラス軍のニール大佐(Col. James Neill)は、ベナレス(Benares)とアラハバード(Allahabad)を奪回し、悪名高い市民虐殺を行った。

 インド総督カニングは、カーンプル虐殺の報を受けて、イギリス人の敵意がインド人そのものに向かないよう、寛容(Clemency)方針をとった。しかし、本国では報復せよとの世論が高まった。

 

 ニール大佐の後に続いて、イギリス軍准将ハヴロック(Bri Gen. Henry Havelock)がカーンプルとラクナウ救援に向けて出撃した。

 ハヴロック率いる部隊は、大砲と新式エンフィールド銃の威力により、続々とカーンプル近郊の集落を制圧した。やがて、敵陣の中で気勢をあげる人物がいた。それが謀反の首謀者であるナーナー・サーヒブだった。

 ハヴロックはカーンプルを奪回し、虐殺現場を確認した。その後は、進軍は鈍り、ラクナウまでは至らなかった。

 

 16 コリン・キャンベル卿(Sir Colin Campbell)

 デリー攻撃の延期が続くうちに、インド軍司令官バーナード将軍がコレラで死んだため、後任のキャンベルが本国から派遣されることになった。カニング卿はグラントを推薦したが受け入れられなかった(インド会社軍だからか)。

 その間はベンガル軍のウィルソン将軍(Archdale Wilson)がデリー攻略軍の指揮をとったが、攻撃は行われず敵が強化されていった。

 デリーでは各地の反乱軍が集結し、バフト・ハーン(Bakht Khan)が、皇帝バハードゥル・シャー2世の命により総指揮官となった。かれはデリーの規律維持を唱えたが、昇給を求めて略奪する傭兵や王子たちに手を焼いた。

 その間、ペシャワールからジョン・ニコルソンがデリーに向かった。

 

 8月には各地の反乱はピークに達した。しかし、中央部から南部にかけては静かだった。これは、反乱側の連携がとれておらず、また王や藩主たちがイギリス軍を恐れていたことを示す。

 それでも、もし全土が蜂起していれば、イギリスは放逐されていたに違いない。

 住民のほとんどが敵対している状況では、いかなる軍隊も支配を維持することができない。

 その意味で、インド反乱には指導者――ジョージ・ワシントンがいなかった。

 

 17 デリーの陥落

 ジョン・ニコルソンには、かれを崇拝するパシュトゥン人の親衛隊が常についていた。ニコルソンの到着と、連戦連勝は、デリー包囲軍の士気を盛り上げた。

 9月、ウィルソン司令官の下、ニコルソン、ロバーツらによる攻城戦が行われた。要塞をめぐり、数日間にわたり激しい戦闘が続いた。不利になった王は取り巻きとともに逃走し、バフト・ハーンは置き去りにされた。反乱軍に脱走が相次ぎ、デリーは奪回された。

 しかし、ニコルソンは戦闘中の傷によって死亡し、イギリス側はこれを悲しんだ。

 

 18 ラクナウの救援

 カーンプルで待機していたハヴロックの上官として、優秀な将軍ジェイムズ・アウトラム(James Outram)が着任した。かれらは増援を受け、二輪体制でラクナウ攻略を行った。敵の抵抗は激しく、ニール大佐らが死亡した。

 他地域では、ジャグディーシュプル(Jagdishpur)のクンワル・シング(Kunwar Singh)が蜂起し、またグワリオールやジャーンシーでも反乱軍が出現していた。

 アウトラムとハヴロックの救援軍が逆に包囲されたとき、ヘンリー・ロレンスの下で働いていた文官チャールズ・カヴァナー(Charles Kavanagh)が、セポイに変装して敵の包囲を潜り抜け、キャンベル司令官まで状況を報告した。

 カヴァナーは民間人で初めてヴィクトリア勲章(VC)を受章した人物となった。

 

 19 アワドの征服

 1858年3月に、増援によって強化されたキャンベルの軍がラクナウを攻略した。

 攻城戦においてロバーツはヴィクトリア勲章を受章した。また、優れた指揮官だったウィリアム・ホジソン(William Hodson)が戦死した。ハヴロックも傷が元で死亡した。

 キャンベルは損害を最小限に抑える方針をとったため、デリー攻略に比べて戦死者は減った。しかし、結果的に反乱軍の多くが撤退し、長期化したため、熱射病や病気を含む総死者数は増大した。

 イギリス軍は、グルカ王とその援軍による支援も得たことで、ラクナウの攻略に成功した。

 

 20 ジャーンシーの王妃(the Rani)

 ジャーンシー藩王国の王妃ラクシュミー・バーイー(Lakshmi Bai)は、反乱加担の嫌疑を受けたことで蜂起し、イギリス軍ヒュー・ローズ(Hugh Rose)らと交戦した。王妃はグワリオール城に逃れたが戦死した。

 ヒュー・ローズは、ヨーロッパ人殺害に関して王妃の責任を追及しながらも、彼女を優れた軍司令官として賞賛した。

 ナーナー配下の指導者だったターンティヤー・トーペー(Tatya Tope)は捕らえられ、「わたしは上官の命令に従っただけで何もしていない」という現代的な言い逃れをしたのち処刑された。

 ナーナーを含む反乱の指導者たちはネパール国境に逃れたが、森林で息絶えるか、ネパール王ジャンガ・バハドゥル・ラナ(Jung Bahadur)によって捕獲された。

 

 21 終戦

・1858年8月、インド統治法改正により、東インド会社の全権限はイギリス政府に委譲された。

・インド庁からインド担当省への改革

・キャンベル、ヒュー・ローズ、ホープ・グラント(Hope Grant)、ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain、政治家のチェンバレン家とは無関係)、フレデリック・ロバーツらは表彰された。インド総督カニング卿、行政官ジョン・ロレンスも表彰された。

 反乱鎮圧に協力した藩王やネパール王、グルカ王なども褒美を賜った。

・軍の改革:ヨーロッパ人とインド人との比率を1:2に維持した。ベンガル軍においては、パンジャブ地方のムスリムシーク教徒、グルカ、低位カーストヒンドゥー教徒中心に傭兵を再編成した。

 これは、反乱の10年以上前からジョン・ジェイコブ少将(Maj Gen John Jacob)が提唱していたことである。

・イギリス人、インド人ともに、人事評価制度と待遇を改善した。

・インド人兵隊の制服は、より現地に適したものに変更された。

 

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)

 

 

『The Indian Mutiny』Saul David その3

 10 「嵐は去った」

 アーグラー(Agra)は北西地方政府の首都であり、ヒマラヤのふもとから中央インドのジャバルプル(Jabalpur)までを担任し、デリー、ベナレス(Benares)、アラハバード(Allahabad)、ミルザブール(Mirzapur)、カーンプル(Cawnpore)を含んでいた。

 行政長官(Lieutenant-Governer)のジョン・コルヴィン(John Colvin)は、バハードゥル・シャーが皇帝を名乗り蜂起したことを受け、反乱の背後にムガル帝国がいると考えた。そこで、帝国の仇敵であるグワリオール(Gwalior)藩王国やバラトプル(Bharatpur)に支援を要請した。

 カルカッタのインド総督カニングは、反乱の報を聞き憤激した。インド庁長官のヴァーノン・スミス(Vernon Smith)と連絡をとり、ペルシアとの戦争が終わったこともあり、ただちに援軍を出すことを決定した。

 かれはボンベイエルフィンストーン卿(Lord Elphinstone)にイギリス軍2個連隊と砲兵隊を要請した。また、マドラスのハリス卿(Lord Harris)に歩兵とマスケット歩兵(Fusiliers)を要請した。あわせて、アグラとメーラトにアンソン将軍とヘンリー・ロレンスを派遣した。

 さらに、セイロン(Ceylon)やパンジャブからも援軍を要請した。

 

 カルカッタでは、グルカ兵やシク教徒が反乱をおこすといううわさが広まり、ヨーロッパ人たちは恐慌をきたした。
 アンソン将軍は、デリー奪回の拠点となるアンバラにおいて援軍を待った。

 

 最大の動員はパンジャブ地方において行われた。好戦的なパシュトゥン人を抑えるため、パンジャブには10個連隊が駐屯していた。

 ラホール(Lahore)の行政官ロバート・モントゴメリー(Robert Montgomery)、コルベット(Corbett)准将はただちにインド人部隊を武装解除した。

 植民地最北端のペシャワール(Peshawar)では、ハーバート・エドワーズ(Herbert Edwardes)、ジョン・ニコルソン(John Nicolson)、フレデリック・スレイ・ロバーツ(Frederick Sleigh Roberts)ら卓越した青年将校らが、インド人部隊の反乱を鎮圧した。

 かれらは皆、ヘンリー・ロレンス卿の影響下で育った軍人(Lawrence's Young men)たちで、1846年の第1次シク戦争(1st Sikh War)の後、北西インドの安定化に貢献した。

 ニコルソンやコットン(Cotton)将軍らは、叛徒たちを大砲の砲口に縛り付けて処刑した。これはムガル帝国が実践してきた方法であり、戦士にとって名誉ある死だった。

 

 11 反乱の拡大

 メーラト郊外やアーグラーでも反乱が起こり、ヨーロッパ人たちはパニックに陥った。

 デリー攻略を命じられたアンソン将軍はカルナール(Kernal)に到着したところでコレラにかかり死亡した。代行のヘンリー・バーナード(Henry Bernard)は、援軍が来るまでデリー攻撃を延期したが、このためデリーの反乱軍が増強される結果となった。

 インド軍の実質的な指揮は、カルカッタのインド会社軍指揮官パトリック・グラント(Patrick Grant)がとった。

 

 12 アワド

 旧アワド王国の顧問となっていたヘンリー・ロレンスは、反乱の報を聴いてただちに動き出した。かれは会社から准将の階級を受けて、ただちに首都ラクナウ(Lucknow)の警備を強化した。アワドの反英感情は強く、またヨーロッパ兵の比率が少ないため、危険な状態にあった。

 一方で、かれはカーンプル(Cawnpore)がより危険であることを認識しており、ラクナウから信頼できるインド人部隊を派遣した。

 ラクナウで蜂起が始まり、ヨーロッパ人たちは居住区に籠城した。近郊のシータプル(Sitapur)では多数の将校、ヨーロッパ人が虐殺された。6月初めには、アワド駐屯部隊のほぼ全てが反乱をおこし、イギリス行政は消滅した。

 離反(dissafection)しなかった部隊のなかには、20年以上務めてきたイギリス人指揮官に、忠誠を誓ったものもあった。そうでない部隊は、将校を殺害し、ヨーロッパ人を殺害した。

 

 13 カーンプル

 カーンプル師団の指揮官ヒュー・ウィーラー少将(Major-General Sir Hugh Massy Wheeler)は、優れた軍歴で昇任した人物だった。しかし、かれは東洋人に頼りすぎていた。

 カーンプルには、インド兵17人に対しヨーロッパ人1人しかおらず、間もなく反乱が始まった。

 ウィーラー少将はじめとするヨーロッパ人は、マラーター同盟の王子ナーナー・サーヒブを信用していた。ナーナーは、イギリスと傭兵、どちらか有利な方につこうとしており、イギリスは裏切られた。

 陣地に籠城したウィーラーたちイギリス軍とイギリス人たちは、反乱軍から大量の砲撃を浴び、多数が殺害された。

 近郊の都市でもイギリス人が虐殺されていたが、カーンプルに支援する余裕はなかった。

 

 ナーナー・サーヒブと傭兵将校のように、地方の領主と反乱軍将校が協力する例が各所で見られた。しかし、かれらはインド人の反乱を統合することができず、最終的にイギリスに敗北することになった。

 生存者によれば、叛徒たちは大変臆病であり、決して突撃しようとしなかったという。

 

 14 サーティチャウラー・ガート(虐殺のガート)

 籠城していたウィーラーは、反乱軍の頭領となったナーナーと交渉し、陣地を明け渡すことに同意してしまった。

 6月27日、200人超のヨーロッパ人たちが、舟の用意されたガート(池や川岸に設置された階段状の親水施設)に徒歩で向かった。かれらが舟で出発しようとしたとき、傭兵たちはいっせいに発砲した。

 ウィーラー将軍を含む100人超が虐殺された。ナーナーは、途中で子供と女性の殺害をやめさせたので、ごく一部は死を免れた。ウィーラー将軍の娘を含む若い女性数人は、イスラム教に改宗させられ、インド人の側室となった。

 ヘンリー・ロレンスは、ナーナーの反乱部隊に対し報復攻撃を試みるが、失敗し自身も戦死した。かれは作戦系の経験がなかったため、部下に戦闘をまかせるべきだったと著者はコメントしている。

 [つづく]

 

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)