うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ガンジー自伝』

 ガンジーが、自分の半生を淡々と記述する本。

 ◆メモ

 ガンジーはインド人の権利のために活動した。非殺生(アヒンサー)の教えは、実現は困難だが尊いものであると理解できる。

 一方で、菜食主義、禁欲、牛乳の禁止を実践することは、誰でもできるわけではない。

 かれの信心深さは、言葉だけをとらえると、狂信にもつながるのではという印象を受けた。
 アムリットサルの虐殺や、サティヤーグラハの経緯等、出来事について省略されている箇所もあるので、ガンジーの全貌を知るには他の伝記や評論も読む必要がある。

 

 ――わたしがなしとげようと思っていること――ここ30年間なしとげようと努力し、切望してきたことは、自己の完成、神にまみえること、人間解脱に達することである。

 

 1

 ガンジーはカチアワル半島(パキスタン沿い)出身で、首相の子供として生まれた。

 かれは教育を受ける過程で、酒、たばこ、肉食を自らに禁じた。また、13歳で結婚したがこの風習はよくないと考えるようになった。

 子供時代のいたずら、嘘をついて肉を食べたこと、妻に対し嫉妬したこと等を、反省しながら書く。

 

・インドの高等教育には、地方語、ヒンディー語サンスクリット語、ペルシア語、アラビア語、英語を入れるべきである。

 

 ――……人間は善を取り入れるよりは、悪に染まりやすいからである。そこで、神を伴侶にしようとする者は、孤独を持するか、それとも全世界を伴侶にするかせねばならない。

 

 ガンジーはイギリスに留学することになったが、その際、カーストの集会で破門された。

 

 2

 イギリスに留学し、弁護士の資格を取得した。あわせて、現地のイギリス人にマナーや会話を教わった。

 かれは引っ込み思案で、人前で演説することが苦手だった。それは南アフリカにおいて克服された。

 

 ――……真実を誇張したり、押さえつけたり、あるいは修飾したりしたい癖は、人間の生まれつきの弱点をなすものである。そしてこれを克服するのに必要なのが、すなわち沈黙である。寡黙の人は、演説のなかで、考えなしのことを言うことはまれである。かれは一語一語を検討する。

 

 ギーター、ヒンドゥーの教え、新約聖書の共通項をかれは見出した。

 

 ――自己放棄こそ、わたしには最も強く訴えるものをもった宗教の最高の形式であった。

 

 3

 知人の紹介で、南アフリカにおいて弁護士の仕事をすることになったが、ガンジーはそこで強烈な人種差別を体験する。

 

・白人と同席して暴行を受ける。

・列車から追い出される。

 ――わたしは、法律家の真の任務が、離れ離れにかけちがった事件当事者を結合させることにあることを悟った。

 ガンジーはインド人が差別されている現状を変えるために活動を開始した。

 

 4

 ボーア戦争においては、イギリスに加勢することがインド人の地位向上につながると信じ、野戦病院隊において勤務した。

 かれはイギリスの帝国主義を信じていた。

 インド人の働きはイギリス政府から顕彰された。

 

 ――わたしはいつも、インド人居留民の弱点を隠しだてたり、見逃してやったりすることや、欠点を浄めないでおきながら権利を強く主張することを好まなかった。

 ――改革を欲しているのは、改革者である。社会ではないのである。社会からは、彼は反対、蔑視、そして生命にかかわる迫害のほかに、よりよいものを期待すべきではない。改革者が、命そのもののように大切にしていることでも、社会が退歩だと言わないとはかぎらない。

 

 ガンジーは祖国への義務も重視し、本国飢饉のときに、インド人居留民に寄付を呼びかけた。

 南アフリカを出国するとき、ガンジーは高価な贈り物をたくさん受け取ったが、それを居留民の信託基金とした。その際、贈り物の返却をめぐって妻と争いになった。

 

 ――公のために奉仕している者は、けっして高価な贈り物はもらってはならないというのが、わたしの確固とした意見である。

 

 5

 南アフリカにおいて、新聞紙『インディアン・オピニオン』を経営する。

 ズールー戦争では、イギリスの正義を信じ参戦するが、敵対するアフリカ部族への共感が生じた。

 ブラフマチャリアとは、禁欲のこと。

 

 6

 南アフリカのアジア人登録法に抵抗する、サッティヤーグラハ(真実と堅持)運動を開始した。

 

 ――犠牲というものは、それが純粋であってのみ、その範囲で実を結ぶのである。神は人間に献身を待ち望んでおられる。神は、真心をこめて、すなわち、私心なく捧げられた貧者の一燈を喜ばれ、そして、これを百倍にして報いたもうた。

 

 7

 第1次世界大戦と非殺生(アヒンサ)、帝国への協力と参加について。

 ガンジーはイギリスとともに参戦することを訴えたが、この方針と非殺生との一貫性はなかなか理解が難しい。

 

 8

 ガンジーイスラムとヒンドゥの協力を目標にしていた。しかし理想は実現しなかった。

 

 9

 会議派の運動について。

 

 ――ヒンドゥ、イスラム両教徒の統一、アウトカースト制度の排除、ならびに手織布地(カーディ)についての各決議もまた、この大会で採択された。

 

 1921年からガンジーは会議派に参加した。

 かれの価値観は真実と非殺生とにある。宗教から政治を切り離すことはできない。

  ***

 

ガンジー自伝 (中公文庫BIBLIO20世紀)

ガンジー自伝 (中公文庫BIBLIO20世紀)

 

 

『日本海軍の終戦工作』纐纈厚 その2

 4 東条内閣打倒工作

 東条首班指名の理由は以下のとおり。

 

木戸幸一が、開戦首相を非皇族にすることで、皇族に責任が及ぶことを回避しようとした。

・東条が軍の強硬派を抑えることを期待した。

天皇が東条を信頼していた。

 

 ――……近衛は開戦後において一貫して軍部の戦争政策に批判的な立場を取り続けることになったのであり、その点で軍部に迎合しつつ開戦に傾斜し、開戦直後の予想外の戦果に喜びを隠さなかった天皇との違いを見せていた。

 

 大本営陸軍部第二十班『大本営機密日誌』より……「御上もご満足にて、ご決意ますます鞏固を加えられたるがごとく拝察せられたり」。

 

 国内においては東条体制の確立が進められた。

・「戦時犯罪処罰特例法」:左翼、在日朝鮮人の逮捕拘禁

・「戦時民事特別法

憲兵政治・東条憲兵

 

 戦局悪化と強権政治により、岡田啓介を中心に反東条運動がおこるが、木戸はこれを押しとどめた。

 

 ――東条のことをかれこれいうが一体わたしにどうせろというのか、……又現に御信任のある東条に対し辞めたらどうかと言うべき筋でもないし又わたしから陛下に東条を辞めさせられたがよろしうございますと申し上げる筋でもない。

 

 海軍内では、東条に追従する嶋田繁太郎への不満が強まっていた。

 東条内閣を倒しても、代わりがいないということが、運動の障壁だった。

 

 1944年になると、しびれを切らした木戸や各所から「東条利用論」が持ち上がる。

 

 ――……要するに戦局の悪化の原因や戦争責任を東条一身に集中させ、戦争の怨念が天皇や皇族に波及することを阻止することのほうが賢明だとする議論である。

 ――「自分は矢張り東条に最後まで責任を取らせるがよいと思う。悪くなったら皆東条が悪いのだ。すべて責任を東条にしょっかぶせるがよいと思うのだ。内閣が終わったら責任の趨勢がぼんやりして最後には皇室に責任が来るおそれがある。だから今度はあくまで東条にやらせるがよい」(東久邇宮の発言)。

 

 その後、木戸、近衛、皇族らの支配者内部の調整と、天皇の意識の変化が重なり、終戦工作に結び付いた。

・主戦派と宮中の分離

天皇の東条信任

天皇の権威の必要性

 

 5 終戦工作の真相

 小磯内閣は徹底抗戦、国体護持精神の覚醒、皇土護持を掲げる一方、極秘裏に戦争終結の道を探った。

 しかし、天皇は主戦派=梅津、阿南らの一撃論、徹底抗戦論に同調しており、国体護持を条件とする「聖断」を木戸・近衛らが説得するまでに時間を要した。

 

 ――いうまでもなく、「聖断」の目的は天皇制の維持=国体護持の一点であり、「下万民のため」と称したのは表向きのものに過ぎなかった。……これ以後日本政府は軍部の動向を警戒・牽制しつつ、連合国側とのあいだに「国体護持」の確証を得ようとした。そして、「国体護持」の一点だけのために二ヵ月以上の時間を費やすことになる。

 

 終章 海軍の戦争責任

 1945.8.12、米内光政は「原子爆弾ソ連の参戦は天祐だ」と発言している(「米内海相直話」)。

 戦争終結が国内の事情でなく外的要因であれば主戦派も納得し、また国内の権力機構も温存されるからである。

 米内は海相時代、参謀本部に反対し、近衛の日中交渉取りやめに同調したが、対米開戦については、海軍力不足として判断を回避した。

 また、海軍の対中国政策は陸軍と本質的に変わるものではなかった。

 

 終戦工作は、海軍、木戸ら宮中、天皇といった支配層が基盤を温存するために行われたと著者は結論づける。

 

日本海軍の終戦工作―アジア太平洋戦争の再検証 (中公新書)

日本海軍の終戦工作―アジア太平洋戦争の再検証 (中公新書)

 

 

『日本海軍の終戦工作』纐纈厚 その1

 海軍の政治的役割を再検討し、特に海軍への過大評価、善玉評価を見直す。

 

 ◆感想

 本書の要点は、日米開戦後から終結までの、責任回避の応酬である。
 「海軍善玉論」、「天皇に実権はなかった」、「海軍は初めから戦争に反対していた」といった説は、こうした責任回避工作の結果がいまも継続していることを意味する。

・海軍はアメリカを仮想敵国とする経緯上、対米開戦に消極的ではあったが明確に反対はしなかった。開戦前夜には判断を放棄し、近衛首相に一任した。

・対中政策においては陸軍と変わらず、満州事変に便乗し、上海では陸軍の慎重姿勢を押し切って派兵した。

・東条内閣打倒と終戦工作においては、宮中と連携し、自分たちの責任を回避することに努めた。

・「聖断」は天皇の徹底抗戦論を、周囲がなだめることで実現した。しかし、降伏の是非は天皇制の維持にかかっており、その確証がとれるかどうか議論している間に原爆が落とされた。

 

  ***

 序章 日本海軍の時局認識

 本書は高木惣吉海軍少将の資料(高木惣吉史料)を活用する。高木惣吉海軍大学校主席卒業後、教官や海軍省調査課長、海軍省教育局長などを務めた。

 高木惣吉の時局認識は、海軍の一般的な認識を示すものである。

 

・時勢は英米自由主義から、独伊の新体制に傾きつつある。議会政治ももはや古い勢力に過ぎない。

・浜口内閣の軍縮は否定する。

・陸軍の満州事変が成功したため、海軍も中国においてプレゼンスを示さなければならない。

・1932年第1次上海事変では、海軍が積極的に侵略主義を掲げた。

・1937年盧溝橋事件では静観していたが、第2次上海事変では陸戦隊の出兵と渡洋爆撃を開始し、不拡大方針を捨てた。当時のスタッフは穏健派と呼ばれる者たち……米内光政海相山本五十六次官、豊田副武軍務局長、伏見宮博恭軍令部総長嶋田繁太郎軍令部次長、近藤信竹第1班長だった。

 

 ――彼らは、それなりの合理性を重んじはしたが、海軍の利益拡大の機会と見るや、陸軍以上の侵略性を露骨に見せるグループでもあった。

 

 この時点で、太平洋での権益をめぐって英米と衝突が不可避であると海軍首脳は考えていた。

 

 1 欧州情勢の変化と海軍

 日中戦争開始後の海軍の情勢認識の変遷について。

 海軍が、まったく独自に世界情勢の分析と、日本の外交方針の検討をしているというのが面白い。同じことを陸軍も独自でやっていたということだろう。

 両手がばらばらに動いているような国家をコントロールするのは不可能である。

 

 当初海軍は、陸軍の推進する対ソ戦準備、中国完全制圧、三国同盟締結には反対していた。

 海軍は、対ソ戦を回避し、中国を制圧次第大陸進出をやめ、海洋における東亜新秩序建設のために海軍力を増強すべきと考えた。

 やがて、枢軸同盟を強化し英米に対抗するという陸軍とほぼ融合した方針に変化した。

 

 2 日米開戦の前提

 海軍は最後まで対英米戦に反対していたわけではない。対英米戦に消極的ではあったが、海軍の役割拡大に際し不可避だろうと判断したに過ぎない。

 

 ――……海軍は、むしろ独自のスタンスを確立することに懸命であり、同時にドイツの新国際秩序形成への動きを肯定的にとらえ、自らの役割期待を積極的に見出そうとしていた。

 

 1941年の御前会議までには、このまま制裁により窮乏する前に対米開戦すべきとする考えが海軍の見解となった。

 

 ――早期に開戦決意を固め、積極的な戦争発動こそが勝機をつかむ最大の要件とする高木の主張は、永野軍令部総長はじめ、海軍首脳たちの見解を補強するものだった。この主張の背景には、海軍が政局に左右されず、対陸軍との関係において主導権を発揮したいとする強い願望があった。

 

 陸海軍の戦争能力に不安を抱き、判断できずに迷っていた近衛首相は、海軍の意見を参考に対米開戦に傾いていった。

 

 3 日米交渉の展開

 御前会議に先立ち、天皇も永野のジリ貧開戦論に納得した。

 陸海軍は日米交渉を単なる時間稼ぎとしか見ていなかったが、世論は交渉に期待し、株価が高騰した。

 開戦が間近にせまると、海軍は開戦の回避判断を放棄し、「首相一任」とした。この理由は、開戦責任を回避するか、または海軍内で意見が一致しなかったためと思われる。

 設立以来、アメリカを仮想敵国としてきた海軍が、自ら開戦回避を主張することは自滅につながると首脳は判断した。

 

[つづく]

日本海軍の終戦工作―アジア太平洋戦争の再検証 (中公新書)

日本海軍の終戦工作―アジア太平洋戦争の再検証 (中公新書)

 

 

『アフリカ大陸探検史』アンヌ・ユゴン

 ◆メモ

 主に19世紀のアフリカ探検をたどる。

 探検家たちの多くは偏見や白人至上主義の持ち主だったが、リヴィングストンやメアリ・キングズリー等、当時の基準からすれば公平な視点を持つ者もいた。

 アフリカ探検は文明化の象徴として本国でもてはやされ、やがて帝国主義の先駆とされた。

 本書には探検家の写真や、アフリカのスケッチ、文物のカラー写真が多く含まれている。

 "Scramble for Africa"で言及されていた、冷酷で異常なドイツの探検家カール・ペータースKarl Petersについては記載がない。

 

  ***

 1 未知の世界

 19世紀のヨーロッパ人にとって、アフリカは未知の世界だった。かれらの知識は沿岸部に限られており、また奴隷貿易は栄えていたが、内陸に入りこむ必要はなかった。

 18世紀、啓蒙主義の時代に、奴隷貿易の廃止とともにアフリカへの伝道、探検の動きがおこった。。

 カトリックプロテスタントの各国は盛んに伝道師を派遣した。同時に、商業的な理由からの探検(天然資源や、市場)も増加した。

 ナイルの源流は、ヨーロッパ人にとって、地中海の成り立ちを知るという意味を持っていた。また、アフリカ大陸の赤道上には、雪山があるという伝説があった。

 

 1880年以降は、軍人が中心となり、探検は植民地化と同義となっていった。

 

 フランス語のCを用いてアフリカ探検の歴史を表現する。

・Curiosite好奇心

・Civilisation文明化

・Christianisationキリスト教

・Commerce商業

・Colonisation植民地化

 

 2 ナイルの水源を求めて

 18世紀末から、ナイルの水源地を求めてイギリス人、フランス人、エジプト人らが探検した。ナイル川は途中でスーダンの湿地帯に吸い込まれるため、その先をさかのぼるのは困難だった。

 

 1850年代、イギリスは軍に対しナイル川水源への探検を命じた。

 英軍人のバートンとスピークはナイル源流を探し、1856年、ヴィクトリア湖を発見した。しかし、ヴィクトリア湖は水源ではなく、湖に流れ込む複数の湖や河が水源だった。

 サミュエル・ベーカーはバートンらに続きナイル水源発見の旅に出て、アルバート湖を発見した。かれは西洋文明主義者であり、アフリカの部族を軽蔑していた。

 探検家は、西洋文明の伝道者としての役割も担っていたが、かれらの多くは、自分たちの窮屈な社会からはみ出した者が多かった。

 

 3 リヴィングストンの伝道の旅

 19世紀、南アフリカにはボーア人とイギリス人が住んでいた。1849年ごろから、宣教師だったリヴィングストンはケープ植民地から北上する探検を開始した。

 リヴィングストンはアフリカを横断し、本国では英雄として迎えられた。

 イギリスは奴隷貿易の廃止政策を掲げていたが、アラブ商人、中央アフリカ部族、ポルトガル人らによる貿易は継続していた。リヴィングストンの報告は、奴隷貿易廃止を願う人びとにも刺激を与えた。

 1871年、ウジジ村で静養していたリヴィングストンを、特派員のヘンリー・モートン・スタンリーが発見する。

 リヴィングストンは、伝道者、文明の使者として、ヨーロッパにおいて伝説化された。

 

 4 大森林の中で

 リヴィングストンの死後、探検はヨーロッパの植民地化と一体化していった。

 1870年代には、コンゴ川流域、ルアラバ川流域が探検領域となった。英海軍人カメロンや、アメリカ人スタンリーがこの地を探検した。

 その後、スタンリーはベルギー王レオポルド2世の支援を受け、悪名高いコンゴ自由国の設立に貢献した。

 フランスもコンゴ川地域の植民地化に乗り出し、サヴォルニャン・ド・ブラザを派遣した。

 メアリ・キングズリーはアフリカ探検によって魚類や民族を調査し、やがてスタンリー、キプリング、植民地相チェンバレン等と親交を深めた。

 

 5 探検家という職業

 探検家の荷物……

・医薬品、蚊帳、シーツ、マットレス、毛布、テント

・食糧、調味料

・舟、大工道具、測量道具、通行料用の品物

・銃、弾薬

・荷役人夫:アフリカ人は、見知らぬ土地の探検に関心を持ち、こぞって応募した。

 

  ***

 アフリカの万年雪……キリマンジャロ、ルウェンゾリ、ケニア

 ザンジバル……タンザニア沿岸の島。19世紀、奴隷貿易の中心地として経済発展した。

 マルシャン海軍大佐……1896年、フランスの横断政策に従い、西アフリカからナイル上流に向かった。1898年、ファショダでキッチナー率いる英軍と対峙した(ファショダ事件)。

 

アフリカ大陸探検史 (「知の再発見」双書 (29))

アフリカ大陸探検史 (「知の再発見」双書 (29))