うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Hitler』Joachim C. Fest その3

 6 準備期間

 大統領の死に伴いヒトラーは総統及び首相の兼任となった。

 国民投票では、社会民主党支持者とカトリック(中央党)がまだヒトラーを拒絶していた。

 

・恫喝外交と宥和政策……1935年の英独海軍協定、ヴェルサイユ条約破棄と徴兵制復活、ベルリン・ローマ枢軸、ラインラント進駐等。

 ヒトラーは、戦勝国同士の連携を崩すことで、大戦後の安全保障システムを破壊した。

 スペイン内戦は、継続させることがドイツの利益となると判断し、不十分な支援のみを実施した。

ヒトラー人間性……人の話を聴かず、イエスマンだけを配置する。相手に反論させず、延々としゃべり続ける。

・1937年のホスバッハ覚書について、本書は、ヒトラーの侵攻計画の証拠であるとする立場に立つ。

・1938年、チェコスロヴァキア併合のとき、国防軍のハンス・オスター、ルートヴィヒ・ベックを中心にクーデタが計画された。しかしチェンバレンミュンヘン会談に応じた結果、計画は中止となり、作戦は失敗した。

・1939年、ポーランドに対するダンツィヒ割譲要求を境に、英国は敵国となる。ヒトラーは生存圏確立のために、まずは西側を亡ぼした後、ソ連を亡ぼすことを決意したという。

 

ポーランドの強硬姿勢、ソ連の英仏への不信が、ドイツの侵攻と英仏の宣戦布告の直接原因となった。

 英国の最後通牒の報を受けて、ヒトラーは放心状態となった。側近の証言では、以後、ヒトラーは「ドイツは終わった」、「私の歴史は無に帰すだろう」と自暴自棄の独り言をつぶやいたという。

 ドイツが英仏との戦争に勝てる能力を有していないことを、軍だけでなくヒトラーも認識していた。

 

・恫喝・脅迫による瀬戸際外交政策は、ポーランドで失敗し、それがヒトラーの致命傷となった。

 

 7 勝者と敗者

 ポーランド侵攻の後、1940年5月、ドイツのフランス侵攻が始まり、6月にフランスは降伏した。国防軍は消極的だったがヒトラーに押し切られた。

 イギリスに勝てないことがわかり、ヒトラーは自暴自棄になった。

 1941年6月22日、ドイツ軍がソ連に侵攻し、独ソ戦が始まった。

 東部戦線では、アインザッツグルッペンの活動に加え、国防軍に対しても、スラブ人やユダヤ人を絶滅させるよう指示が出された。

 

 ヒトラーの政治家としてのキャリアは終わり、無能な戦争指導者としての破滅が始まった。

 対英戦争、独ソ戦、合衆国への宣戦布告は、全て失敗が明らかだった。

 ヒトラー独ソ戦において高級軍人を次々更迭し、自らが指揮し、大隊、連隊レベルまで介入した。

 戦況の悪化につれて官邸地下壕に籠り、現実から目を背けるようになった。

 ナチ政権崩壊の原因……非効率な官僚組織を乱立させ、軍の指揮系統が混乱していた。末期の崩壊を加速させたのは、ボルマンのような利己的な側近である。

 

 8 破局

 ヒトラー暗殺計画は、士官のみによって行われた不完全な作戦だった。

 連合国がベルリンに近づくにつれてヒトラーはますます現実から遊離していった。かれはイタリアを罵倒し、同盟を結んだことを後悔した。

 かれは、「自分は生ぬるかった」、「過激さが足りなかった」、「英国を買いかぶっていた」と後悔した。

 ルーズベルトが死ぬと、戦況が変わるのではないかと躁状態になるが、ベルリンは陥落しようとしていた。

 1945年4月30日にヒトラーは自殺した。

 海軍士官は名誉の観念を残しているとの思い込みから、デーニッツを後継者に指名し、徹底抗戦するよう伝えた。しかしデーニッツは従わなかった。

 

 9 結論

ヒトラーは古いヨーロッパを破壊しようとしたが、彼の人格や性格のほとんどは古いヨーロッパから生まれたものだった。

・19世紀とブルジョワの文化の産物だった。

ドイツ国民は応援し、手を振り、行進するだけでよかった。ナチスは人びとを政治から解放し、また私的領域を消滅させた。

・ナチ体制崩壊後、ドイツは自分たちの傾向を封じるようになった……極端な人物、深遠さ、非社会的な大理論、現実への蔑視等。

ヒトラーは力と恐怖を集め行使した。ナチズムの思想はあくまで手段でしかなかった。ナチスが残したものは恐怖を除いてほとんどない。

 

 

Hitler (Harvest Book)

Hitler (Harvest Book)

 

 

『Hitler』Joachim C. Fest その2

 3 長い待機

 ランツベルク刑務所に収監された期間を、ヒトラーは「国費による大学」と形容した。かれは『わが闘争』を執筆し、ヘスらの編集を経た後出版された。この本にはゴビノーの人種理論を曲解したドイツ民族主義、反セム主義が強く反映されている。

 1924年に解放されたヒトラーは、党の再建にとりかかった。

 かれはリーダーシップのないローゼンベルクを代行者にあてており、また党員が議会選挙に出ることを禁じていた。意図的に党の統率を弱め分裂状態にすることにより、党の掌握を容易にした。

 北ドイツではグレゴール・シュトラッサー、ゲッベルスらがナチス左派を形成し、社会主義的な方針を打ち出していた。かれらは親ソ的であり、ヒトラーの思想とは相いれなかった。

 いとこのゲリと交際を重ねた後、1926年になりヒトラーは集会と演説をこなし、間もなくナチス左派を孤立に追い込んだ。

 ヒトラーは議論や理論そのものを軽蔑しており、権力の掌握と指導者への無条件服従こそが重要であると考えていた。

 1928年まではナチス左派との闘争、レームら突撃隊との意見の相違をのぞいて、比較的穏やかな状況が続いた。

 

ヒトラーボリシェヴィキ政権を「ユダヤ人の政府」とみなしていた。

・『わが闘争』の印税で別荘を買い、またメルセデスのオープンカーを購入した。かれは所得を隠していた。

 

 4 闘争のとき

 1929年の世界恐慌と、賠償金をめぐるヤング案の締結は、国民の間に、社会民主党に対する強烈な不満を引き起こした。ナチ党は宣伝攻勢を進め、支持者を増やしていく。

 ナチ党員は若年層、没落した中産階級が中心だったが、特定の階級に限らず幅広い支持を得ており、それが共産党に対する優位となっていた。

 1930年の選挙でナチ党は107議席を獲得し、社会民主党に続く第2政党となった。ヒトラーは全国的に有名となり、さらに多くの支持層を集めた。

 ヒトラーの個人崇拝が進み、突撃隊、親衛隊の規模も拡大した。ナチ党員や突撃隊、親衛隊の平均年齢は若く、英国の外交官もナチ党の躍進を「若者の運動だ」と評していた。

 ブリューニングに続くパーペン内閣は貴族中心の閣僚が多数であり、国民からの支持は皆無だった。

 1932年の大統領選において、ヒトラーは現職ヒンデンブルクに次ぐ票を集めた。

 同時期、姪のゲリ・ラウバルが自殺したことはヒトラーの精神、特に女性に対する態度に大きな影響を及ぼした。

 ナチ党は自家用機をチャーターしての演説旅行、ポスター、映像等を駆使して宣伝を行った。

 同年7月の選挙では第1党となった。しかし、11月の選挙ではSAによる共産党員リンチ殺人、ストライキへの支持等により議席減となった。

 ドイツは、ヒンデンブルクを核とする権威主義政府、民主主義を掲げる社会民主党、独裁を掲げるナチ党と共産党とに分裂していた。

 1933年1月、ヒンデンブルクは、ヒトラーを首相に指名する。ヒンデンブルク、首相シュライヒャー、前々首相パーペンは、ヒトラーの力を甘くみており、手なずけることができると考えていた。

 社会民主党は長い間与党だったが、必ずしも首相を輩出していない。この点で、反共和制、反立憲主義を掲げるヒトラーを指名したことは軽率だった。

 ナチ党が第1党となった原因として、著者は抵抗勢力の分裂をあげる。社会民主党、保守勢力、共産党は、お互いに一致して共通の敵を倒そうとしなかった。

 ヒトラー誕生の土壌:東方拡大主義はドイツに伝統的に存在し、また反ユダヤ主義はヨーロッパ全土に普及していた。ドイツ人は現実政治を忌避し、極端な思弁と哲学に逃避する傾向があった。ヒトラーロマン主義を政治に持ち込み、政治を芸術にしようとした。

 

 5 権力掌握

 ヒトラーは自身の革命に合法性の枠組みを与えた。よって、共和国時代の法や規則はその後も名目上残った。

 首相指名後、ナチ党は国費を使って総選挙宣伝戦を行った。プロイセン州内相ゲーリングは秘密国家警察(ゲシュタポ)を創設した。間もなく警察人事はSAとSSで独占された。

 1933年1月の国会議事堂放火事件にかこつけて、ヒトラーは大統領緊急令を公布させると、政敵の逮捕拘禁が自由に行えるようになった。

 同年3月の授権法(全権委任法)制定時には、共産党議員は拘禁・逃亡・逮捕で全欠席となっており、一連の法制定により立憲体制は崩壊した。

 法に基づく統治をヒトラーがうたいながら、SAやSSには国家テロを遂行させた。

 

ヒトラーは政府機関や組織を乱立させ、互いに抗争させたため、「権威主義無政府状態」とも形容される。

・ナチ党の権力掌握に際し、知識人や学者、芸術家たちは驚くほど従順だった。

ヒトラーは具体的な経済政策を何も持っていなかった。

・レームら突撃隊の粛清について。

 1934年6月の「長いナイフの夜」により、ヒトラー潜在的な敵対勢力を排除し、また共和国軍を手なずけた。国民はならず者たちが粛清されたことで安定感に満たされた。

 著者は、ナチによるシュライヒャーらの粛清に対し、軍自身が非難しなかったことで、軍の独立性が失われるきっかけになった、と批判する。

 突撃隊に代わって、ヒトラーの私兵に近い親衛隊が組織拡大を始めた。
 なお、レームら旧友の粛清にヒトラー本人は心を痛めており、逆にヒムラーゲーリングらは平然としていたという。

 

[つづく]

 

Hitler (Harvest Book)

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『Hitler』Joachim C. Fest その1

 ヒトラーの伝記。

 フェストは「ヒトラー最期の12日間」の原作者でもあり、本書もヒトラー研究の古典とのこと。

 

 歴史観について……もしヒトラーポーランド侵攻前に死んでいれば、かれはナポレオンやアレキサンダーに連なる古代的な偉人として称えられ、反ユダヤ主義や世界征服論も、若さゆえの情熱ととらえられていたかもしれない。

 ヒトラーナチスの台頭を阻止できる機会は何度かあったようだ。

 しかし、熱狂や妥協、ヒトラーへの過小評価によって、そうした機会は見過ごされてしまった。

 

  ***

 1 無目的の人生

 かれは自分の経歴を隠し、脚色した。

 青年時代のヒトラーは、周りと打ち解けない、典型的な社会の脱落者である。かれは時代遅れの画風で絵を描き続けたがまったく認められず、高等教育を受ける能力もなかった。

 ヒトラーの思想を形成するゲルマン民族主義、反ユダヤ主義、社会ダーウィニズム優生学等は、当時のオーストリアやドイツに広く普及していた。

 かれの生まれたオーストリアでは、ドイツ人以外の民族が優遇されており、ドイツ人たちは不満を抱いていた。ユダヤ人、チェコ人等が労働力として台頭しつつあり、ドイツ人は、自分たちが少数派になるのではないかと恐れていた。

 

ヒトラーの祖父は確定しておらず、ユダヤ人である可能性もある。本人もゲシュタポに調査させたが突き止められなかった。

父親アロイスはヒトラーが少年時に死んだ。ヒトラーは2回ほど学校に行かされたが、成績が悪く2回とも退学した。

・その後、画家を目指した。美術学校への試験に何度も落ち、挫折した。

ヒトラーは19世紀のブルジョワ文化にあこがれ続け、当時盛んだった現代音楽や絵画には見向きもしなかった。

ブルジョワ社会から脱落させられたヒトラーは、自分の不満を政治的風潮に転嫁した。当時、オーストリアで主流だった汎ゲルマン主義と反セム主義に同調するようになった。

 ヒトラーの反セム主義や国家社会主義には先駆者がいるが、本人はこれを隠し、自分こそ創始者であると偽りつづけた。

・シェーネラーとウィーン市長ルエーガーは、反ユダヤ主義の師である。また本書では、特にワーグナーからの影響が強いことを認めている。ヒトラーワーグナーに影響を受け、気質や経歴も互いに似ていた。

・徴兵逃れのためにウィーン、リンツミュンヘンと転居した後、かれは捕まった。

・かれは第1次世界大戦が始まるとバイエルン国軍に志願した。戦争はヒトラー含む多くのヨーロッパ人を、退屈で疲弊した生活から解放した。ドイツは自国民を欺く大本営発表を続けていたが、突然の敗戦により国民は衝撃を受けた。

 ドイツ革命は保守派と手を組む中途半端なものとなり、国民の支持を得られなかった。その後、ヴェルサイユ条約によりドイツ国民は屈辱と怒りにとりつかれた。

・敗戦後、ヒトラーはドイツ労働者党(後のNSDAP)に参加し、政治活動を始めた。


 2 政治への道

 極左による革命と義勇軍・共和国軍による弾圧・暴力行為が行われる中、ヒトラーは政治活動に関わり、演説の技術や、反ユダヤ主義思想の洗練に努めていた。

 国民の間には、敗戦に対する怒り、赤色革命への恐怖が根強く、左翼や議会主義は支持を得られなかった。一方、民兵組織が人気を勝ち取っていた。

 ドイツ労働者党に加入する前、ヒトラーバイエルン共和国において、軍の情報将校カール・マイヤーに勧誘され、政党活動を調査するスパイとなっていた。

 

バイエルン・レーテ共和国はクルト・アイズナーが設立した革命政権だが、間もなく共和国軍に鎮圧された。このとき、革命家たちが人質数十人を殺害し、対抗して民兵や軍が共和国関係者を殺害した。

 

 ヒトラーは、ドレクスラーの主催するドイツ労働者党の集会で、演説の才能を発揮した。

 かれは精力的に演説をこなし、酒場の集まりに過ぎなかった党を共産党に対抗できる大衆政党に変化させた。

 NSDAP国家社会主義ドイツ労働者党)は、オーストリアドイツ国社会主義労働党にならって命名された。卍のシンボルも、オーストリアの党にならい採用した。

 ヒトラーバイエルンを中心に支持を広げていき、実業家や警察、国防軍の中にも勢力を構築した。フランスのルール進駐等、国難が迫っていたが、他の国粋主義政党とは一線を画し、腐敗政府の打倒を第一目標に掲げた。

 1923年5月、バイエルンにおける右派の分離独立運動が腰砕けになった後、9月、周囲の期待に応えるため蜂起した。ヒトラールーデンドルフ、クリーベルらは、ミュンヘン近郊のビュルガーブロイ・ケラーを襲撃し、バイエルン州総督カールらの集会を襲い、ベルリン進軍を主張するが失敗し投獄された。

 

[つづく] 

 

Hitler (Harvest Book)

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『在日朝鮮人 歴史と現在』水野直樹、文京洙

 19世紀末から現代までの、在日朝鮮人の歴史を解説する本。

 在日朝鮮人は特殊な歴史的経緯をもって日本に定住しており、そうした事情を理解することができる。


 1

 朝鮮人が日本にやってくるのは、1899年頃からである。九州の炭鉱会社や、朝鮮で軍事施設や鉄道工事を請け負っていた土木工事会社(間組、鹿島組、大林組)等が、朝鮮人労働者を雇い入れることが多かった。

 当時、中国人は勅令により日本での労働を禁じられていたため、代わりに企業は、朝鮮人労働者を使った。かれらは労働を終えると帰国するか、または別の労働場所へと渡り歩くか、飴の行商などを行った。

 1910年の韓国併合後も、日本人と朝鮮人は戸籍によって分別された。在留朝鮮人は警察の監視下におかれ、特高は内鮮係を設け、排日思想保持者を重点的に取り締まった。

 第1次大戦後の1920年には、工業・紡績業の発展に伴い、男女あわせて約4万人の朝鮮人労働者がいたとされる。

 1919年の三一独立運動は、朝鮮人留学生のネットワークが中心となり勃発した。

 1923年の関東大震災時にはデマが流され、1000名以上の朝鮮人が警察・軍・自警団に殺害された(日本人も多数が巻き添えで殺害された)。根底には朝鮮人に対する蔑視と恐怖があり、政府も暴動のデマを流布させた。

 本国に仕事がないこと、日本語が普及したことから、朝鮮人渡航者は増え続けた。警察は、渡航を阻止するため「渡航証明書制度」という警察の内規をつくったが、朝鮮人を差別するようなこの制度は植民地支配を不安定化し、国際的な反発も予想されたため、法律にされることはなかった。

 朝鮮人たちは大阪や京都といった都市部に朝鮮集落、朝鮮街を形成し、文化の保持に努めた。

 家族単位の渡航が増えたため、朝鮮人たちは夜学などを開設し教育を行った。しかし政府は朝鮮語教育を独立運動として禁止した。

 朝鮮人たちは労働運動、社会主義運動、福利向上のための運動等を行った。

 

 2

 恐慌時には朝鮮人労働者の流入が抑えられ、代わりに満州に振り向ける方針がとられた。

 在留朝鮮人には参政権が与えられ、32年には朴春琴が衆議院議員に当選し、差別解消、融和を掲げて活動した。

 関東団震災以後、政府は治安維持のために、在日朝鮮人との融和を志向する「協和会」を設立し、特高・警察関係者と、朝鮮人の有力者を中心に運営させた。

 強制連行・強制労働は、39年からは募集、42年からは官あっせん、44年からは徴用の形式で行われた。

 いずれも、実態としては官憲による強制を伴ったが、戦後外務省が認めた強制連行は44年以降に限られている。

 皇民化政策が推進され、日本での朝鮮語の使用は禁じられた。40年以降、朝鮮本土と同じく、日本でも創氏改名が定められた。

 敗戦時には、在日朝鮮人は200万人に達していた。

 

 3

 GHQの人権指令によって朝鮮人の計画送還が決まり、46年3月までには140万人が帰還した。

 敗戦直後から1年間は、「解放された民族」として一部の中国人、朝鮮人などが不法行為暴力団との抗争、闇市、密売)を行った。

 闇市の時代から出世した人物では、坂本紡績の徐甲虎やロッテの辛格浩が有名である。

 日本から出ていった朝鮮人のなかで、本国の情勢悪化や生活基盤の欠如、言語の問題などを理由に、日本に逆流する動きが生じた。

 在日朝鮮人の恒久的な立場を確立するため、朝鮮連盟が結成された。この団体は、日本共産党と密接なつながりを持っていた。

 左翼的傾向に反発した運動家たちは、対抗して新朝鮮建国同盟(後の在日本大韓民国民団)を設立した。朝連と建青・建同はお互いに抗争した。抗争には拳銃を持った暴力団員などが参加した。

 政府当局・占領軍と、在日朝鮮人との間での争い……日本側は、朝鮮人を外国人化する一方、独自の教育を当初認めなかった。新たな「皇民化」だとし、デモや暴動が発生した後、私立学校における独自の教育が認められた。

 

 朝鮮戦争……韓国軍への在日義勇兵北朝鮮側による在日米軍妨害事件(吹田事件、枚方事件、大須事件、「血のメーデー」事件)。

 52年、サンフランシスコ講和条約の発効により、在日朝鮮人日本国籍を失った。また、外国人ということで朝鮮人BC級戦犯等への保障も除外となった。

 53年、朝鮮戦争停戦後、朝鮮総連が設立された。

 北朝鮮の呼びかけにより、帰国運動が始まり約7万人が日本を去った。しかし、戦前から生活基盤を持つ在日朝鮮人の9割は韓国地域出身であり、かれらは国籍を奪われ、高い失業率と貧困のなかで生活しなければならなかった。

 在日朝鮮人生活保護率は高く、また韓国に行っても貧しくすぐに戻ってくることが多かったという。

 

 4

 朴正熙軍事政権の成立と、1964年の日韓国交正常化について。

 韓国と日本政府との間で、永住権協定の調整が進んだ。日本は在日朝鮮人に永住権を与え、一方韓国は、在日朝鮮人を日本に棄民する方針を進めた。

 66年からの永住権申請により30万人程度の在日朝鮮人が永住権を取得し、国民健康保険の資格を得た。

 この動きは、朝鮮籍朝鮮人減少と連動し、朝鮮籍は20万人程度となった。

 

・2世たちの社会……公職(大学教員、地方自治体職員、弁護士)への門戸を開くための運動。指紋押捺反対運動。

・在日企業……韓国籍マルハン、朝鮮系のモランボン。朝鮮系企業は、やがて朝鮮総連を通じて本国への上納金を課されることになった。

・70年代、朴正熙独裁の影響……金大中民主化運動の旗手だったが東京で拉致された。軍事政権はKCIA(中央情報部)要員を日本各所に配置し在日の監視を行った。

・第3の道……日本で生活するが、帰化はせず、民族としての存在を保持すること。

・91年以降顕在化した従軍慰安婦問題は、日本の植民地支配だけでなく、韓国・在日社会内の女性差別(「汚れた女は韓国が必要とする女ではない」)をも明らかにした。

 

 5

 高度成長時代、在日朝鮮人は、「地域社会の異物、もしくはせいぜい部外者として同化か異化かの二者択一の生を余儀なくされていた」。

 やがて、外国人数は中国人が朝鮮人を上回り、また日系ペルー人、フィリピン人、ブラジル人等も増加した。

 協定に基づく特別永住者が減る一方、帰化する朝鮮人が増え、また80年代以降やってきたニューカマーも増えた。大久保のコリアタウンは、主にニューカマーたちによって成り立っている。

 朝鮮総連は本国の状況や幹部の不祥事もあり、勢力を弱める一方である。

 外国人増加や、90年代の「植民地支配に対するおわび」に反発して、内向きのナショナリズムが勃興しつつある。

 韓国社会は、かつては日本と同じく排他的な社会であり、華人在日韓国人の居住を許さなかった。しかし、21世紀になり外国人の数は激増し、在日に対する受け入れ姿勢も変化しつつあるという。

 

在日朝鮮人 歴史と現在 (岩波新書)

在日朝鮮人 歴史と現在 (岩波新書)