うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The Great Game』Peter Hopkirk その3

 3 終盤

 クリミア戦争の結果、ロシアでは反英論(Anglophobe)が高まっていた。

 

 1858年、アレクサンドル2世は、若い軍人イグナティエフ(Ignatiev)をヒヴァ、ブハラに派遣した。かれはその後北京に向かい、アロー戦争中の清国と英国との仲介になり、1860年、北京条約によって清国北方の国境付近を手に入れた。

 ロシアの主要な反英論者……戦争相ミリューチン(Milyutin)、東シベリア総督ムラヴィエフ(Muraviev)、コーカサス総督バリアチンスキー(Baryatinsky)。

 ロシア政府は南北戦争の影響を受け、綿の輸入を求めてフェルガナ進出を決めた。また、1864年、ゴルチャコフ(Gorchakov)外相の覚書は、ロシアの植民地主義を告げるものとなった。

 

 1865年、チェルニャエフ将軍はコーカンド・ハン国の領土タシケント(Tashkent)を占領した。将軍は「タシケントの獅子」と呼ばれ、タシケントには新たにトルキスタン総督府(総督カウフマン(Kaufman))が設置された。

 1868年、カウフマンはサマルカンドを占領し、続いてブハラ・アミール国を保護国化した。

 

 東トルキスタンは山脈によって孤立しており、カシュガル、ヤルカンドといった都市は、歴史的に中国の支配を受けてきた。

 1865年、コーカンド・ハン国出身のヤクブ・ベク(Yakub beg)が乗り込み、新たにカシュガル王国を建てた。

 英国人探検家ロバート・ショウ(Robert Shaw)と、ジョージ・ヘイワード(George Hayward)はお互いに対抗しつつ東トルキスタンに潜入した。さらに、英領インド軍モントゴメリーが訓練したインド人工作員(the Pundit)も当地に潜入した。

 ショウはヤクブ・ベクと親交を結び、ヤクブ・ベクは対露政策として英国との同盟を望んだ。ヘイワードはその後、カシミール北部に乗り込んだところ地方のボスに殺害された。

 

 1873年、カウフマンは3つの軍団を率いてヒヴァに侵攻した。ハンは逃亡し、ヒヴァはロシアに占領された。

 

 バーナビー大尉(Frederick Gustavus Burnaby)は、ロシア勢力下の中央アジアに乗り込むため、サンクトペテルブルクの戦争相ミリューチンに直接申し出た。かれは許可を得て、ヒヴァからカラクム砂漠(Karakum)を通り、メルヴ(Merv)を目指した。

 イギリス軍元帥の命令で途中で引き返したが、かれの探検記は反露主義を盛り上げ、ベストセラーとなった。

 

 1877年、オスマン帝国領内のヘルツェゴビナの反乱と、ブルガリアでの虐殺に対し、ロシアが戦争を開始した。露土戦争はロシアの勝利に終わったが、逆に列強はロシアへの警戒を強めた。

 イギリスがオスマン帝国を支援した場合に備えて、カウフマンはロシア軍を出動させ、アフガンを経由しインドに侵攻させるつもりだった。

 

 戦争終結後、カウフマンはストリエトフ(Stolietov)将軍をカーブルに派遣し、対英戦での協力を要請した。

 インド総督(副王Viceroy)のリットン卿(Lord Lytton)は、この動きを許さず、アフガンの君主シール・アリー(Sher Ali)に最後通牒を送り、宣戦布告した(第2次アフガン戦争、1978~1979)。

 ロシア軍は約束を破り援軍を送ろうとせず、シール・アリーは逃亡先で死亡した。代わって、摂政ヤークブ・ハーン(Yakub Khan)がイギリスに降伏した。

 カーブルに駐留していた英軍将校が再び反乱により殺害され、ヤークブ・ハーンも逃亡した。インド反乱鎮圧の名将フレデリック・ロバーツ(Frederick Sleigh Roberts)がアフガンに再侵攻し、アイユーブ(Ayub)を破った。

 その後、アブドゥル・ラフマン(Abdur Rahman)が王位に就いた。かれは英国に逆らわなかったため、イギリスは再びアフガンを勢力圏に治めた。

 

 ロシアは次の一手としてトランスカスピアン地方……トルクメンに進出した。イギリスがスーダンでの反乱に手を焼いている間に、スコベレフ(Skobelev)将軍が1881年にジョクテペ要塞(Geok Tepe)を占領し虐殺を行った。その後1884年、ロシアはメルヴを併合した。

 1885年、ロシア軍がパンジェ(Pandjeh)に進出したため、英露戦争の危機となったが協議により回避された。その後も、ロシアはアフガン近辺に進出した。対抗してイギリスもロシア領内に偵察者を送り、またインド国境の警備を強化した。

 中国の支配に戻った東トルキスタンカシュガル、ヤルカンド)や、パミール高原に接するチトラル(Chitral)、フンザ(Hunza)にも、ロシアは軍を派遣しようとした。イギリスはヤルカンドの部族軍と同盟し、ロシアに対抗することを検討したが、部族軍の練度の低さを見てあきれた。

 ロシアは中央アジアに鉄道を敷設し、イギリスの将校カーゾン(George Curson 後のインド総督)は鉄道や保護国を偵察した。

 

 1889年、1890年、イギリス軍将校フランシス・ヤングハズバンド(Francis Younghusband, 後の王立地理学会会長)や文官ジョージ・マカートニー(George Macartney)がフンザ地方を探検した。パミール高原ヒンドゥークシュの麓は、英露清の領土が交わる要衝だった。ヤングハズバンドは、1889年、1890年双方において、進出していたロシア軍将校とテントで会談した。

 

 インドへの道をめぐる最後の紛争……

・フンザ・ナガル戦役(Hunza=Nagar Campaign)……僭主サーダーフ・アリ(Sadaf Ali)追放、デュランド(Durand)大佐の活躍

・チトラル包囲……ウムラ・カーン(Umra Khan)の蜂起、ロバートソン(Robertson)将軍の籠城戦と、ロウ(Low)将軍やケリー(Kelly)大佐による救援

 チベットは名目上清の支配下にあったが、ラサ(Lhasa)を目指して英露は再び進出した。

 大佐となったヤングハズバンドは兵を連れてラサ手前の都市に向かった。かれはチベット進軍の過程で、虐殺事件を起こしてしまう。その後、ラサを制圧した。しかし、結局、宗主権は清国に残した。

 

 1904年、ロシアは極東で日本に敗北し、政治的・経済的に大きな打撃を被った。イギリスのチベット進出に対抗する余裕はなかった。

 1907年、新たな危険分子であるドイツの拡大を阻止するため、英露協商が結ばれた。中央アジアをめぐる長年の対立は解消された。

  ***

 

The Great Game: On Secret Service in High Asia

The Great Game: On Secret Service in High Asia

 

 

『The Great Game』Peter Hopkirk その2

 2 中盤

 中央アジア、特にアフガニスタンを傘下に入れようと、英露の対立が強まり、紛争が各地で勃発した。

 

 1831年頃、ベンガルインド軍のアーサー・コノリー(Arthur Conolly)は、モスクワからインドにかけて探検し、コーカサス地方カイバル峠間、カスピ海東岸、カラクム砂漠(Karakum Desert)の情報を収集した。

 かれは、ロシアがインド侵略をするならカーブル(Kabul)とカイバル峠のルートか、もしくはヘラート(Herat, ペルシアに隣接する豊かな都市)を目指すに違いないと考えた。

 

 砂漠そして攻撃的なトルクメン(Turkoman)部族以上に、中央アジア最大の障害は、アフガニスタンだった。

 アフガニスタン人はロシアの傘下にあるペルシアを憎悪しており、また戦闘的だった。

 イギリスは、ロシアに対抗するため、アフガニスタンを制し、またヘラートをカムラン・シャー(Kamran Shah)王朝(暴君、反ペルシア)に保持させておく必要があった。

 

 続いて、シク王国のランジート・シングに贈り物(馬)を運ぶ名目で、アレクサンダー・バーンズ(Alexander Burnes)中尉はインダス流域の偵察を命じられた。

 バーンズはインダス川を越えてシク王国の都ラホール(Lahole)、カーブル、ブハラを訪れた。

 カーブルの君主ドスト・ムハンマド(Dost Mohammad)は統治に長け、狡猾だった。バーンズは、かれがアフガンを安定させておくにふさわしいと判断した。ブハラでは、宰相(Vizier, ワズィール)の歓迎を受けた。

 

 1833年、オスマン帝国領内エジプトで、ムハンマド・アリーMuhammad Ali, エジプト建国の祖)が反乱を起こした(第1次エジプト・トルコ戦争)。オスマン帝国を救済するため、英露双方が介入し、ムハンマド・アリー朝がおこった。

 

 トルコ情勢に加えて、コーカサスでもグレート・ゲームが展開された。まだロシアに征服されていないチェルケス(The Circassians)とダゲスタン(Daghestan)……ムスリムの山岳部族たちに対して、反露主義者であるデイヴィッド・アーカート(David Urquhart)が支援しようとした。

 

 この時期、ペルシア、ヘラート、アフガニスタンの各君主に対し、ロシアが使者を送り込んでいることがわかり、イギリスは危機感を抱いた。

 ロシアはカーブルにヴィトキエヴィチ(Vitkevich)を派遣したが、これを英軍将校ローリンソン(Rawlinson)が察知した。インド総督は、対抗してバーンズを派遣した。

 

 ドスト・ムハンマドを引き入れようと英露は互いにけん制した。しかし、英領インド総督(Governer-General India)のオークランド卿(Auckland)は、ペシャワールを要求する王ドストを脅迫し、英国から離反させた。バーンズは交渉に失敗しカーブルを脱出した。

 同時期、ペルシアのシャーがロシア人顧問シモニッチ(Simonich)のもとヘラートに侵攻した。ヘラートではポッティンジャーの甥が防御戦を指導し活躍した。その他、イギリス人の東インド会社関係者マクニール卿(McNeill)も関与していた。

 ヘラート攻撃は失敗し、ロシアは手を引いた。ヴィトキエヴィチは政府から切り捨てられ、サンクトペテルブルクで不審死した。

 

 ◆第1次アフガン戦争

 1839年、イギリス軍(インド総督マクナーテンMcNagten, ベンガル総督キーンKeane, バーンズ中佐)がシク王国の支援を受けて、アフガニスタンに侵攻した。

 従順でないドスト・ムハンマドを追放し、シャー・シュジャー(Shah Shujah)を傀儡に据えるためだった。

 ガズニ(Ghazni)要塞での抵抗の後、ドスト・ムハンマドは亡命し、英軍はあっけなくカーブルに入城した。

 ところが間もなくカーブルで暴動がおこりバーンズは死亡した。ドースト・ムハンマドの息子アクバル(Akbar)の軍がイギリス駐屯軍を包囲し、マクナーテン将軍は惨殺された。残されたエルフィンストーン(Elphinstone)将軍らも窮地に追い込まれ、雪のカイバル峠を撤退する過程で虐殺された。

 1842年、アフガンの傀儡君主シュジャーは暗殺され、ドースト・ムハンマドが復位した。

 

 ◆ヒヴァへの探検

 英露はヒヴァを勢力下に収めようとお互いに進出した。しかし、中央アジアの砂漠は極めて過酷な環境だった。

 ペロヴスキー(Perovsky)将軍は5000の兵を率いてオレンブルクから出発したが、冬の気候で全滅寸前となり、途中で引き返した。

 イギリスのアボット大尉(Abbott)、シェイクスピア(Shakespear)がヒヴァのロシア人奴隷解放に尽力し、ロシアの進出の口実をつぶした。アボットの名はアボッタバード(Abbottabaad、パキスタンの都市)に残されている。

 

 探検の途中でブハラのハーンに拘束されていたストッダート(Stoddart)とコノリー(Conolly)は、斬首された。

 

 その後しばらく、中央アジアでのグレート・ゲームは小康状態となった。

 1846年から48年にかけて、2度のシク戦争でイギリスはシク王国を植民地化した。

 1853年からクリミア戦争が勃発した。ロシア対トルコ・英仏のこの戦争で、ロシア軍は敗北し、ニコライ皇帝は失望し死亡した。

 クリミア戦争に乗じてペルシアがアフガンのヘラートに侵攻したが、イギリス海軍がペルシアを艦砲射撃したことで退散した。

 イギリスは、ロシアの劣勢を見て、ダゲスタンのイマーム(指導者)たるシャミル(Shamyr)を支援しようとしたが、ムスリムとの関わりを嫌う政府によって見送られた。

 1857年、インド大反乱が起こり、イギリスは対応に追われた。鎮圧後、イギリス東インド会社は解散し、インドは女王直轄領となった。

[つづく]

 

The Great Game: On Secret Service in High Asia

The Great Game: On Secret Service in High Asia

 

 

『The Great Game』Peter Hopkirk その1

 グレートゲームThe Great Gameとは、中央アジアを南下するロシア帝国と、インドを拠点とする大英帝国との紛争を示す言葉である。

 なお、この言葉の生みの親とされるイギリス東インド会社のコノリー(Conolly)大佐は、1842年、ブハラ・ハン国(現在のウズベキスタン・ブハラ)でハンに捕らえられ斬首刑になった。

 本書は、中央アジアの覇権をめぐるイギリス、ロシア、中央アジア諸王朝の動き、また多くの探検家や冒険家、軍人たちの活動をたどる。

 

 著者のホップカーク(2014年死去)はイギリス出身のジャーナリストで、中央アジアだけでなくアルジェリアキューバなど様々な地域を取材した。本書の他にも多数の中央アジアに係る著作がある。

 

 ◆所見

 植民地戦争の一舞台であるコーカサス中央アジアでの、帝国と現地国家・部族との抗争を時系列でたどる。著者は「序盤、中盤、終盤」に分けて英露の対立を記述する。

 イギリス軍・ロシア軍双方において、準大尉(Subaltern, 下級将校)に高度の裁量が与えられていたのが特徴的である。

 かれらは、砂漠や山脈、氷に覆われた無人の土地を探検し、地理情報を集めると同時に、専制君主たちをだまし、現地人を殺害した。同時に自分たちも、盗賊や、専制君主、反乱の危険にさらされた。

 グレート・ゲームにおける軍人たちは、現代の官僚化した軍人とはまったく異質の業務を行っていた。

 イギリス軍の編成……東インド会社軍や、英領インド軍は、大部分が外国人傭兵……セポイ(傭兵)、シク教徒、パンジャブ人、パシュトゥン人、グルカ兵等からなり、イギリス人は将校ら一部に過ぎない。

 植民地戦争は、帝国の指揮の下、大半は現地人対現地人によって戦われていたことを示す。

 日露戦争は、勢力拡大を目指すロシアに対し、現地国家日本が抵抗した稀有な例である。しかし、日本もまた大陸・朝鮮半島権益保持のために戦ったのであり、帝国主義入れ子構造となっている。

 ※ 旅順攻略戦はBattle of Port Arthur、奉天会戦はBattle of Mukden、日本海海戦はBattle of Tsushimaとして有名である。

 

  ***

 1 序盤

 英仏露の抗争の起源はナポレオン時代にある。ナポレオンがインド侵攻を企画しているとのうわさが広がり、英露は警戒した。その後、ナポレオンが姿を消し、英露がそれぞれ大国として中央アジア権益をめぐり対立を強めたことが、グレート・ゲームの契機となった。

 

 ロシアは、モンゴルと黄金のオルド(Golden Horde, ジョチ・ウルスキプチャク・ハン国)に侵略され、タタールの軛といわれる長期間の服従を強いられた。

 イヴァン大帝(Ivan the great)によって、ロシアは遊牧民から土地を奪回した。続いて、イヴァン雷帝(Ivan the terrible)は東方・南方への拡大を進めた。

 

 ナポレオン時代:

 ロシア、フランス、イギリスは、お互いにペルシアを同盟に引き込もうとした。

 グレート・ゲームの前哨戦:

 英領インド軍クリスティ(Christie)とポッティンジャー(Pottinger)の冒険により、イギリスは中央アジアの地理情報を集めた。

 ロシアはペルシアを侵攻したが、ペルシア軍の屍体の中から英国の軍事顧問クリスティを発見した。これは外交問題にはならなかったが、イギリスではクリスティの死を受けて、ロシア脅威論が勃興した。

 

 インドへの道:

 英領インド軍キニア(Kinneir)大尉による、インド防衛についての分析。

 ナポレオン没落ののち、イギリスにとって、ロシアが最大の脅威となった。

 海路は閉ざされているため、ロシア軍の進路は、コーカサスから東方に向けての侵攻、あるいはオレンブルク(Orenburg、沿ヴォルガ連邦管区カザフスタン国境)からの南下が考えられた。

 アフガニスタン中央アジアの要衝となった。なぜならインドへのすべての道は、アフガニスタンを経由するからである。

 カイバル峠(Khyber Pass)はインドへの入り口、つまり侵入者の道となるだろう。

 

 ロシアの先駆者:

 ムラヴィエフ(Muraviev)は、イェルモロフ(Yermolov)将軍の命を受け、トビリシ(Tiflis, ティフリス)からヒヴァ(Khiva)・ハン国へ派遣された。ロシアは、交易と技術協力を餌に、やがては中央アジアの緩衝国家を併合しようとしていた。

 ムラヴィエフはヒヴァの太守とうまく交渉し、返礼の使節トビリシまで連れていった。併せて、かれはヒヴァへの経路や戦力・防御分析を報告し、後のロシア南下政策の基礎となった。

 

 1820年代初め、東インド会社所属のイギリス人ムーアクロフト(Moorcroft)が、ロシア脅威論者としての信念から、北インドのラダック王国(Ladakh)と交易関係を結ぼうと探検を行ったが、うまくいかなかった。ラダックには、すでにロシア人が進出していることが判明した。

 ランジート・シング(Ranjit Singh)率いるパンジャブ(Punjab)のシク王国は当時イギリスと同盟関係にあり、宿敵ラダック国とイギリスが関係を深めることを許さなかった。ムーアクロフトに対して刺客が送り込まれたが、かれは生き延びた。

 

 続いて、ロシアの学者エヴァースマン(Eversmann)が、ブハラ・ハン国(Bokhara)にやってきて、ロシアとの交流を創始させた。一方、ムーアクロフトはオクソス(Oxus)(アムダリヤ)河流域で不審死した。

 

 ロシアとペルシアの戦いは再燃しつつあった。1828年、ロシアの大使がペルシアにおいて群衆に殺害される事件も起きたが、皇帝はトルコと戦争中であり、ペルシアとの戦線を開くことを躊躇した。

 さらに、ロシアはトルコ領内に進軍し、コンスタンティノープルまで迫った。しかし、英仏がロシアの拡大を警戒したため、皇帝は停戦させた。

 

 イギリスにおけるロシア脅威論が高まり、ジョージ・ド・レイシー・エヴァンス大佐(Colonel George de Lacy Evans)はロシアのインド侵略を警戒した。

 1830年、これに影響を受けたウェリントン公爵(Arthur Wellesley, the Duke of Wellington)内閣のエレンバラ卿(Lord Ellenborough)はインド統括委員として情報収集を開始した。

 

 これがグレート・ゲームの始まりである。

[つづく]

 

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Great_Game#/media/File:Map_of_Central_Asia.png

The Great Game: On Secret Service in High Asia

The Great Game: On Secret Service in High Asia

 

 

『戦艦武蔵』吉村昭

 戦艦武蔵の建造から撃沈までを題材にした記録文学。取材を基につくられてはいるがあくまで文芸作品のようだ。

 特に建造過程が詳細に説明されており、秘密保全や、軍と会社のやり取り等、現代にも受け継がれている要素がありおもしろい。

 

・秘密保全……武蔵の外観が見えないように、造船所に棕櫚の幕を垂らす。丘の上に住宅街を憲兵保全隊員が巡視し、怪しい者を片っ端から捕まえて厳しい尋問を行う。領事館から目視できないよう、途中に市の倉庫を建設し戦艦を隠す等。設計図についても、流出しないよう厳重な対策を行った。

・軍と民間の関係……当時はまだ海軍に技術者がおり、造船将校が設計図等にも関わった。海軍から受け取った図面等に基づき三菱の技術員が建造をおこなった。会社には主席監督官以下、会社の作業を監督する軍人がおり、進捗を管理した。

 

  ***
 大和と武蔵は、存在自体が秘密とされていた。

 大和は国営の呉海軍工廠で、武蔵は三菱の長崎造船所でそれぞれ建造されたが、この計画は当時の大蔵省や政府に対しても秘匿されていた。

 予算要求の際は、大型戦艦ではなく雑多な装備品に項目を偽装したという。

 無事完成した大型戦艦だが、既に艦隊決戦の時代が終わりつつあり、目ぼしい活躍をすることなく沈没した。武蔵は重油の消費が激しく、また敵の主力にぶつけるためになかなか実戦に用いられず、他の舟からは「御殿」と揶揄された。武蔵乗組員は穴掘りや施設作業に使われた。

 沈没した武蔵の乗組員は存在を隠され、生き残った者は軟禁されるか、または決死隊として使い捨てられた。特攻から生還した搭乗員の末路を連想した。

 

  ***

 巨大な戦艦を秘匿するために、長崎市内の中国人を訊問したり、窓の方向を見るな、と各戸に通達したりと、だいぶ強引な保全対策をやっていたようだが、米軍の話では大和、武蔵の諸元は戦後までわからなかったという。

  ***

 造船担当者や技師たち、また乗組員たちは与えられた作業に必死で取り組んだ。司令塔である軍や政府がなぜ適切な指示を出せなかったのかが問題である。

 

戦艦武蔵 (新潮文庫)

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『サウジアラビア』保坂修司

 矛盾を多く抱えた国家について解説する。

 アメリカの同盟国であると同時に、9.11実行者の大多数を輩出し、また冷戦期にビンラディンやアフガン・アラブを支援した国でもある。

 日本人の視点からは非常に不思議な社会であり、抱える問題もわたしたちとは異なる。

 

 0 パラドクス

 サウジアラビアワッハーブ派といわれるが、これは蔑称である。18世紀にアブドゥル・ワッハーブが提唱した宗派は柔軟で革命的なものだったが、現在サウジアラビアで施行されているものは全く異質の教義である。

 サウジアラビアは、世俗化することなしに近代化を行った。近代的な産業が発達する一方で、宗教警察である勧善懲悪委員会が市民のふるまいを監視している。

 都市は富裕層が多く居住する一方で、スラムが存在する。また、テロリストの問題は9.11(同時多発テロ事件)をきっかけに噴き上がったが、サウジアラビアでは、それ以前から国を悩ませる問題だった。

 1933年の国家成立後、当初メジャーによる経営だった石油生産は、徐々にサウジアラビアの手にわたっていった。

 1960年にはサウジアラビアの生産決定権が増し、1980年には、石油会社アラムコが国営化した。

 

 1 王族

・フェイサル国王(1975年暗殺)

・ハーリド国王(1982年死亡)

・ファハド国王(2005年死亡)

・アブダッラー国王(病気がちの王に代わり実務を担当していた、2015年死亡)

・サルマーン(2016年現在国王、認知症

ムハンマド・ビン・サルマーン(皇太子、実務担当)

 

 サウジアラビアとは「サウード家のアラビア王国」を意味する。イランやイラク、エジプト、リビアの王制は打倒されたが、サウジの王族は存続した。

 王族は歴史が古く、また数は2万人以上存在する。

 王族は、閣僚ポストのみならず外交・治安・軍事、また地方行政の隅々まで配置され、反乱やクーデタを未然に防止している。

 王族のほとんどはビジネスに関わっており、例えばワリード・ビン・タラール王子のキングダム・ホールディングはアラムコを除けば国内最大の企業である。また、ファイサル元国王の一族によるファイサリーヤ・グループも巨大である。

 王族の企業は新聞やテレビ放送を牛耳っている。

 王族は、コネと口利き、賄賂を使い、サウジアラビア経済を支配する。

 国王は政治的・宗教的な最高権力を持つが、王族会議や部族代表による合議制に基づいており、独裁的な力を振るうことはできない。

 

 2 石油の力

 サウジアラビア経済は石油に依存しているが、現在、石油価格は市場と海外の動向に左右される。

 また、1人当たりGDPは、同じ産油国であるカタールやドバイよりもはるかに低い。理由は、サウジの人口が急激に増加したためである。

 サウジアラビアの人口統計はあてにならないが、現在も高い出生率(7人)を記録しており、このまま人口爆発を続けた場合、石油経済では国民を賄うことができなくなるだろう。

 石油に依存しない経済の多角化が行われているが、前途多難である。

 また、特に若年サウジ人の失業は深刻である。にもかかわらず、数百万人の外国人労働者がいるのには理由がある。

 

 ――おそらくアンケートに答えた管理職側の人間もサウジ人だろう。サウジ人みずからが、サウジ人労働者は勤務態度が悪く、定着せず、規則を遵守せず、経験がなく、外国語ができず、配置換えも賃金カットするのも難しく、生産性が低いと認めていることがわかる。

 

 若者の失業率の高さを改善するために、各業界・分野において外国人労働者の比率を減らす「サウジ人化」政策がとられたが、うまくいかなかった。経営者側は、使えないサウジ人の若者を高い給料で雇いたくないし、サウジ人側には、グレーカラー、ブルーカラーの仕事・職人仕事に対する忌避が強かったからである。

 

 ――サウジでは、働いているのか、休憩しているのか、あるいは邪魔しているのかよくわからない人たちをよく見かける。

 

 こうした社内失業者を雇うことが、家族社会と同様にセーフティーネットとなっている。

 サウジ人が労働市場で価値が低い原因は、教育と経験の不足にある。教育は宗教家たちが管理してきたが、近年は職業に役立つ訓練を取り入れるよう変化しているという。

 

 3 変わりゆく社会

 教育問題……

識字率が7割程度

・小学校中退が多く、高卒も13パーセント程度

・宗教に傾いた、しかも偏向した教育内容

 

 ――イスラエルの存在が影を落としているのだろう。ユダヤ人に関しては、欧米ではまともに相手にされない陰謀論がまかりとおる。たとえば、高校1年生の教科書にはフランス革命共産主義ユダヤ人の陰謀だといった説が記されている。

 

 異教徒の根絶、ジハードの義務等、教科書の内容はアルカイダの主張とほぼ同一のようだ。

 教育が過激化した原因は、1979年のマッカ占拠事件にある。教育に過激な要素を取り入れることで宗教界をなだめ、王制への不安定要素をつぶそうとした。

 また、エジプトやシリアの世俗政権に追い出されたムスリム同胞団員を難民として受け入れ、教育職につかせた。

 あわせてソ連のアフガン侵攻に聖戦士たちを送り出すことで、国内不満の沈下を図った。かれらはアフガンから帰ってくると、国の厄介者になり、居場所を失った。

 湾岸戦争をきっかけに政治改革運動、デモが生じ、政府はこれを抑え込んだ。さらに、聖地における米軍駐留に宗教界が反対し、また一部の過激派であるアルカイダの発生するきっかけになった。

 

 4 リヤドの春

 9.11をきっかけに、政府は教育改革、テロ対策に手を付けた。

 政府は宗教界をコントロールしきれなくなり、改革を提言し政府を批判する宗教家たちを弾圧した。ほぼ同時期に、サウジ国内でのテロが再開し、やがて9.11につながる結果となった。

 9.11以後、政府は欧米からの自由化圧力と、国内の宗教強硬派の双方に配慮しなければならなくなった。

 イラク戦争前後には国内で自爆テロや銃乱射、誘拐斬首が頻発し、当局は対応に追われた。政府は過激なウラマーを逮捕し、また慈善団体への資金監査を厳格化した。

 

 2005年には、地方評議会選挙が全国で行われた。その結果は次のようなものだった。

 

・国民の大半は無関心だった。かれらの関心は、地方評議会ではなく諮問評議会(国政)にある。

・新聞やインターネットで比較的自由な言論が生まれた。

・大都市では部族ネットワークが機能しなかった。

イスラーム主義者は危機感を抱いた。

 

 5 未来への道

 サウジアラビアは過激派と西欧文化にあこがれる若者、テロ・宗教警察と豊かな生活、ワッハーブ派エスタブリッシュメントとリベラルが併存する国である。

 ある研究によればサウジ人の6割はノンポリであり、思想的な分布は次のように示される。

 

・テロリスト

・ジハード主義者

・タクフィール主義者(背教徒宣言をし殺害する勢力)

・扇動のウラマー

・保守強硬派

エスタブリッシュメント

・穏健派(改革派)

・無関心

・リベラル

 

 2005年現在、政府は、宗教勢力を刺激しないように、漸進的に改革を進めているようだ。

 

サウジアラビア―変わりゆく石油王国 (岩波新書 新赤版 (964))

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