うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『古代国家の成立』直木孝次郎 その1

 中公「日本の歴史」シリーズの1つ。

 大和朝廷の成立をたどる。

 聖徳太子の実像は現在新たに研究が進んでいる分野なので、他の文献も読む必要がある。

 

 1 新王朝の出発

 飛鳥は大和朝廷の始まりの地である。

 大和は朝鮮半島と元々関係が深く、4世紀末には百済新羅を勢力下におき、任那には日本府を設置していた。しかし、5世紀末、高句麗新羅が力を持つと、任那の日本勢力は駆逐された。

 6世紀の継体天皇朝鮮半島に軍を派遣するが失敗し、磐井の乱の原因となった。

 ――天皇家蘇我氏とは、地方勢力や民衆にたいしては朝廷の地位を高めるために協力し、朝廷の内部にあっては、天皇専制と豪族連合のどちらを優先させるかできびしく対立した。

 

 2 保守派物部氏の没落

 臣(おみ)……蘇我氏、葛城氏、平群氏、巨勢氏、紀氏などは、地方の豪族出身であり、天皇家と出自は同等である。

 一方、大伴氏や物部氏、土師氏、弓削氏など連(むらじ)は職能集団が起源であり、天皇家への隷属性が強かった。

 物部氏は軍事・警察・(神明)裁判を司り、雄略天皇の代に権力を持った。

 用明天皇の死後、物部守屋蘇我馬子との対立が激しくなり、合戦により物部は殺害された。蘇我馬子厩戸皇子らを擁し、豪族連合を率いた。

 こうして、天皇専制勢力は没落し、豪族連合・崇仏派の蘇我氏が指導的立場となった。

 

 3 推古女帝

 崇峻天皇時代の蘇我馬子の政治方針……仏教興隆、東国経略、任那復興。

 592年、崇峻天皇は馬子の差し向けた刺客により暗殺され、炊屋姫(かしきやひめ)、すなわち推古天皇が即位した。

 女帝の即位は、皇太子が決まるまでの中継ぎの意味もあるが、皇后の地位が安定したことにもよるという。

 

 ――……天皇の地位が高くなれば近親結婚がいっそう濃密になる。ある意味では、近親結婚の濃度のこさが天皇の権力の強大さのバロメーターである、ともいえそうだ。

 

 古代においては、天皇不執政(天皇が執政をおこなわず、名目上の指導者に留まること)は、一般原則ではなく、特殊な場合にのみ起こった。

 余談だが、戦前、保守派は天皇機関説(近代的不執政説)を批判したが、戦後は天皇免責の観点から不執政説を支持した。

 

 4 聖徳太子の立場

 用明天皇の子、聖徳太子、別名厩戸皇子は、摂政として天皇専制の強化に努めた。

 一方、蘇我馬子は、天皇を不執政の地位に祭り上げ、官司制を通じて実権を握ろうとした。

新羅征討……太子主導の計画による。複数回、筑紫から外征しようと派遣軍を送ったが、渡海は中止した。最終的に、新羅は大和には服属しなかった。

・冠位十二階……氏族ではなく個人単位に与えられ、官僚制の確立を目指すもの。

 百済の官制とつながりが深い。馬子と太子が共同で制定したと思われる。

・十七条憲法……天皇親政を強く掲げているため、天武・持統朝の偽作の説もある。

・遣隋使……太子による。

斑鳩宮への移転。

 

 5 日出ずる国からの使者

 聖徳太子が派遣した小野妹子は、手紙により隋の煬帝を怒らせたものの、無事、使者裴世清を大和に連れてくることに成功した。

 遣隋使は、煬帝に対し日本の地位を示すとともに、煬帝からの使者を受け入れることで、地方豪族に対し、天皇の威信を高めることを目的としていた。

 「天皇」という君主号(元は、大王(おおきみ)を用いていた)や、「日本」という国号が成立したのも、聖徳太子時代と考えられている。

 

 6 いかるがの大寺

 現存する法隆寺が最初のものか、再建されたものかについて、戦後論争があった。結論としては、現存法隆寺は、初代から数十年後に再建されたものという説が主流となった。

 聖徳太子が実際に仏教を興隆していたかどうかの証拠は少ない。

 しかし、かれが信仰に厚く、また渡来人から仏教を学んでいたことは間違いない。

 [つづく]

 

日本の歴史〈2〉古代国家の成立 (中公文庫)

日本の歴史〈2〉古代国家の成立 (中公文庫)

 

 

『地獄の日本兵』飯田進

 著者はニューギニア島に派遣され、終戦後、オランダ軍によってBC級戦犯として訴追され懲役20年の刑を受けた。

 本書は、日本兵の最大の死因である餓死を軸として、若者たちが被った悲惨な従軍の様子を伝えるものである。

 国家と軍隊に裏切られた若者の怒りが、凄惨な戦場体験を通して伝わってくる本である。

 

 1

 著者は興亜青年として、アジアの復興の志を抱き、ニューギニア海軍民政府に調査局員として雇われた。ニューギニア島は海軍が軍政を敷いており、著者は地理情報などを集める職員として昭和18年に派遣された。

 ニューギニアでは山脈の調査や人食い種族との交流などを行った。

 一方、隣のガダルカナル島では日本軍が壊滅していたが、報道統制のために著者でさえ何も知らなかった。

 

 2

 昭和17年8月、米軍……海兵隊含む2万名が上陸し、ガダルカナルの飛行場を奪取した。2500名の陸軍作業部隊と250名の海軍陸戦隊はすぐにジャングルに撤退した。

 そこで川口少将率いる6000人の部隊が上陸したが突撃失敗しジャングルに追い込まれ、飢餓が始まった。

 その後も増援されるが同じ結果となり、昭和18年2月に撤収したときは3万1000人兵力のうち2万800人が死亡し、その大部分は餓死だった。

 命令により、患者は射殺、歩行不能者は自決させられた。敗北の状況が本土で漏れないよう、撤収兵は、激戦地に転戦させられ多数が死亡した。

 ガダルカナル島撤退の前に、ニューギニア島東南端の連合軍基地ポートモレスビーにおいても、日本軍は奪回作戦を失敗しジャングルで全滅した。

 ※ ガダルカナル島の生命判断

 

 3

 東から西へ進行する連合軍に対し、日本軍は基本的にはジャングルを撤退するだけとなった。

 ――もっとも拙劣な戦術は、軍隊の逐次投入である。

 

・サラワケット山越えでの転落死、凍死、河を渡るときの溺死

・下痢による衰弱死

・牛革ベルトや革靴をかじって食べる、地下足袋を燃やして暖を取る

・蚊の大群、シラミ、ブヨ、巨大なヒル

・生き残りが衣類や装備をはぎとるため、屍体は裸

 

 ――さらには、糧秣の不足は、人間性を最も露骨に現し、戦友をだまし、盗み、時には殺人までして、食糧を少しでも多く、自分だけでいいから手に入れたいとの行為が、相次いで見られ、鬼畜のふるまいもこれまでと思われることが平常となった。

 

 4

 マダンからウエワクにかけて、セピック河と広大な湿地帯を進んだ。軍の靴は濡れるとすぐに壊れた。

日本兵による強盗殺人の多発

・虫、爬虫類を食べる

 

 ――あのなあ、転進者の生き残りがたむろしているところにはな、単独で兵隊を使いに出せないんだ。どこから撃たれて食われるかわからねえからだ。

 

 5

 連合軍を陸海共同で攻撃する「あ号」作戦が幻に終わり、日本兵はジャングルに退避することになった。一部の日本兵は原住民たちに歓迎され、村落で生活し生き延びた。

 しかし、村落の作物を荒らす日本兵もいたため、原住民から襲撃を受けたり、連合軍に寝返ったりする住民もいた。

 

 6

 ニューギニア島西端のビアク島は、フィリピンやトラック島への爆撃拠点となる重要地だった。

 ――陸軍参謀本部も、海軍軍令部も都合の悪い情報は一切伏せて知らせなかったのです。それを知っていたのは、大本営の作戦参謀だけでした。現地部隊にはまったく真相を隠していたのです。

 ビアク島の戦いで日本軍は敗北し、ジャングルで消滅した。

 

 ――そのほとんどは、餓死するか、現地兵に囲まれて虐殺されてしまいました。かつて無理やり労役に駆り出し、鞭と棍棒で重労働を強いた住民の恨みが、こんな形で晴らされることになったのです。

 

 7

 著者は、マノクワリ増強のため中国戦線から送られてきた師団の情報要員として、偵察などを行った。

 このとき、事情聴取のため現地人を連れてきたところ、部隊の少佐はかれらの処刑を決定した。

 

 ――師団の作戦命令も出ている。北岸一帯の敵性原住民は、ことごとく殺戮殲滅すべしとな。本官も生きて帰還するつもりはない。まずこやつらを先陣の血祭りにあげ、亡き戦友の霊を弔うのだ。

 

 ――……私は、第221連隊が中国戦線で、とりわけ八路軍中国共産党軍)の激しい抵抗の鎮圧にあたった部隊だったことを失念していました。後から思えば、そこでは正規兵とゲリラ、良民の区別などつかなかったのです。女子供と思って油断したら全滅の危険に直面する事例が、数え切れぬほど起きていました。

 

 ――中国戦線では、一番年次の新しい兵士の肝試しに、このようにして捕虜を殺させたのだそうです。

 

 処刑に失敗する様子をみかねて、著者は日本刀で現地人村長を斬殺した。

 著者らのいる地域には米軍はやってこなかった。将校、兵隊のほとんどは病気または飢えで死んだ。

 

 8

 ニューギニア島に投入された兵隊20万人以上のうち、生還したのは1割未満である。

 インドネシア・オランダ軍(蘭印軍)は独立運動鎮圧の一方、日本軍を裁判にかけた。

 著者は住民殺害等の罪で懲役刑となった。オランダ軍は400人以上の日本軍人を銃殺したが、間もなくインドネシア独立により主権を喪失し、日本兵たちも送還されることになった。

  ***

 スガモ・プリズンでは、警察予備隊創設のニュースを受けて「おれたちが戦犯として裁かれた意味はなんだったのか」と批判の声を上げる囚人もいたという。

  ***

 

 ――「あなた方の尊い犠牲の上に、今日の経済的繁栄があります。どうか安らかにお眠りください」……飢え死にした兵士たちのどこに、経済的繁栄を築く要因があったのでしょうか。怒り狂った死者たちの叫び声が、聞こえて来るようです。そんな理由付けは、生き残った者を慰める役割を果たしても、反省へはつながりません。逆に正当化に資するだけです。実際、そうなってしまいました。

 

 著者は、戦争指導者や戦争犯罪人にまつわる著名な例をあげ、醜い事例としている。

・戦後、GHQに重用され、また自衛隊創設に貢献した服部卓四郎

東京大空襲を指揮し、空自創設に貢献した功績を評価され勲一等旭日大綬章を受けたカーチス・ルメイ佐藤栄作内閣時代)

  ***

 

地獄の日本兵―ニューギニア戦線の真相 (新潮新書)

地獄の日本兵―ニューギニア戦線の真相 (新潮新書)

 

 

『Diplomacy』Henry Kissinger その5

 ~ベトナム戦争から現在へ~

 

 ◆ベトナム戦争の失敗

 米国は国益よりも主義・イデオロギーを選んだ。そのため、支援が失敗した場合、自らが乗りこんでベトナム共産化を阻止しなければならなくなった。

 ゲリラ戦は、完全に勝利するか、敗北するかのどちらかしかない。アメリカは、戦力を逐次投入し、徐々に戦争を拡大させていくという失敗を犯した。

 ケネディ南ベトナム援助を引き継いだ。しかし、ゲリラが活発化し、ゴ・ジン・ジェム政権が人心を失うにつれて、米国は国家建設を含む包括的な支援をする必要にせまられた。

 1963年にケネディが暗殺され、ジョンソンが大統領に就任した。ゴ・ジン・ジェム政権はクーデターで転覆したが、米国はベトナムから手を引かなかった。

 ジョンソンは爆撃と派兵を続けながら、常に和平しようとしていた。しかしその条件は、北ベトナムとゲリラには到底受け入れられるものではなかった。

 1968年のテト攻勢は、従来型の野戦となり、結果的には共産勢力の損害が大きかった。しかし、大々的な北側の攻撃は米国に大きな衝撃を与え、ジョンソン政権を支えてきたタカ派保守主義者たちもベトナム政策を見放した。

 

  ***

 1969年以降、ニクソンキッシンジャーは、北ベトナム南ベトナム解放民族戦線と和平交渉を行ったが、順調にはいかなかった。北ベトナムは、妥協することなく徹底抗戦することでアメリカを追い払えると確信していた。

 ニクソンは、アメリカの威信を守り、大統領としての責任を果たすため、「名誉ある撤退」を追求した。

 1973年1月、パリ協定によりアメリカは米軍の撤収を決定した。しかし、北ベトナムはその後協定を破り南ベトナムに侵攻し、1975年に統一を果たした。

 キッシンジャーは、ベトナム戦争が間違いであることを認めながらも、90年代に入り、アメリカは再び新秩序の担い手として世界に求められている、と総括する。

 その後のアフガン、イラクを考えると、国家は学習しないことを痛感させられる。

 

  ***

 ◆ニクソンの外交方針

 ニクソンはセオドア・ルーズヴェルトに連なる、現実主義政治(Realpolitik)の実践者だった。


 ――In Nixon's perception, peace and harmony were not the natural order of things but temporary oases in a perilous world where stability could only be preserved by vigilant effort.

   (ニクソンの認識では、平和と調和は事物本来の秩序ではなく、危うい世界における一時的なオアシスにすぎない。そこでは注意深い努力のみが、安定を保つことができる)

 

 かれはウィルソンを尊敬しながらも、主義ではなく国益を基盤として政策を決定した。

 外交においては、選択肢の多い者が有利である。ニクソンは中ソ対立を利用し、中国と接近することで、ソ連の態度を軟化させた。

 1972年、ニクソン訪中により上海コミュニケが発出され、米中は和解した。

 ニクソンの現実主義外交、勢力均衡論は、英仏中の伝統的な外交方針に近く、米国民や歴代大統領にはなじみのないものだった。ウォーターゲートによりニクソンは退陣したが、米中ソの緊張緩和は続き、米国の対共産主義政策が改めて問われることになった。

 

  ***

 ニクソン就任以降、デタントが進行した。西ドイツ・ブラント首相の東方外交により、ベルリンの対立は収束した。一方、米国はアラブ諸国に圧力を加え、ソ連の影響力を一掃した。

 しかし、デタント政策は保守派、リベラルの双方から反発を招いた。

 保守派は、ソ連に対する融和姿勢の点からニクソンを批判し、リベラルは、民主主義普及の使命を放棄した点を批判した。

  ***

 

 ◆レーガン

レーガンニクソンとは全く異質の大統領であり、外交方針も180度転換した。

・かれはウィルソン直系の理想主義者であり、米国価値観の普及を目指した。ソ連は悪の帝国であり、かれらはいずれ社会主義の間違いを認めるだろうと考えていた。

レーガンは、ゴルバチョフやアンドロポフらと面と向かって話すことで、かれらを社会主義から改心させられると信じていた。

 かれの夢は、ソ連首脳をアメリカの民家に招くことだった。

ニクソンは、なぜかれが大統領になれたのか、なぜこのような無教養な人物が、冷戦終結という偉業を達成することができたのか、驚くべきことであると評している。

レーガンは核なき世界を強く望んでいた。

 そして、ソ連の核開発を打ち砕くため、核軍備を強化した。

・悪の帝国を打ち破るために、かれはムジャヒディンやニカラグアのコントラ(反共反政府民兵)、中南米の極右組織、反共軍事政権を支援した。レーガン外交政策は、ウィルソン風の理想主義に、地政学と勢力均衡の考えを組み入れたものだった。

 こうした反政府組織や軍事組織を支援することで、「目的は手段を正当化できるのか」という疑念が世論に生じた。

レーガンの対決姿勢は、ソ連の経済状況を追い詰め、結果的に崩壊に導いた。

 レーガン自身は、親しみやすいと同時に、本心に近づきにくい人物だったという。

 

  ***
 レーガンのSDI(戦略防衛構想Strategic Defense initiative)は効果を生んだ。

 ゴルバチョフは、自由化と情報公開がソ連を近代化し、共産党を立て直すだろうと考えていた。しかし、その予測は外れ、ソ連は急速に崩壊した。

 ソ連社会の崩壊を最もよく自覚していたのは党のエリートと情報機関だった。民主化運動だけでなく、かれら支配者層が存続をあきらめた点もまた、ソ連崩壊の主原因である。

 キッシンジャーの見解では、米国の冷戦政策は概ね適切だった。理想主義と現実主義の間を行き来はしたものの、結果的にソ連の拡大を阻止し、内部崩壊させることができた。

 

  ***

 ◆キッシンジャーのまとめ

 新しい世界において、米国は再び選択を迫られている。特別な国として、十字軍としてふるまうのか、国益に基づき行動していくのか。

 ポスト冷戦時代は、対立軸が消え、より難しいかじ取りを求められる時代になるだろう。

 以下、キッシンジャーの予測には説得力があり、またよく現実を観察していることがが見て取れる。

 

・ロシアには民主主義の伝統がない。為政者は引き続き共産党エリートが務めるだろう。民主主義者が拡大主義者、帝国主義者であることもあるだろう。

NATOとEUは、アメリカがヨーロッパと接続する上で今後も不可欠となるだろう。

・しかし、旧ソ連諸国をNATOやEUに無差別に加入させることは、ロシアを警戒させるだろう。衰退した帝国は、自己の権益を復活させ、拡大させようとして不安定化を招く。

・国同士の共通意識が希薄なアジアでは、EUのような共同体は生まれず、古典的な勢力均衡が継続するだろう。

・米国にとっての脅威は、アジア、ヨーロッパを単一の強国に独占されることである。潜在的な脅威は、ロシアと中国である。

・アメリカは世界最大の国力を持つが、その力は無限ではない。

 民主主義に基づく普遍的な集団安全保障制度を築くことはおそらく不可能だろう。

・民主主義は普及しているとは言えない。民主主義は、国民の均質性を前提とする。そうでない国家では、意見の多様性は即座に政権の奪い合いと分裂、内戦に直結する。

・今後、米国は自国の限界を認識し、国益に沿った外交を行う必要がある。

・米国は理想主義の国である。19世紀のイギリスのように、純粋に国益に基づいて行動することはできないだろう。人権や民主主義等、普遍的な価値に基づく協調を目標としつつ、あくまで国益を軸として政策を定める必要がある。

 

Diplomacy (Touchstone Book) (English Edition)

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『Diplomacy』Henry Kissinger その4

 ~東西冷戦~

 

 ◆朝鮮戦争に関する米ソの誤算

・米国は、ソ連との全面戦争あるいは東欧侵略以外を想定していなかった。

ソ連は米国の理想主義、「価値」の役割を軽視していた。

 北朝鮮が韓国に侵攻すると、米国はすぐに動員をおこなった。あわせて、フランスのインドシナ占領を支援したが、これは毛沢東を警戒させた。

 朝鮮戦争のような、米国権益の辺境で攻勢があった場合どうするべきなのか。米国はその後もベトナムで悩むことになった。

 米国は、北朝鮮の侵攻をソ連の指示だとみていたが、そうではなく、金日成の意志が原動力となっていた。

  ***

 ◆スターリン以後

 スターリンは死の直前に、東欧をめぐって西側に妥協しようとした。しかし、実現することなく死んだ。

 後継者たち……マレンコフ、モロトフ、カガノヴィチ、フルシチョフらは、大粛清の影響から猜疑心に取りつかれており、西側への妥協政策ができる状況ではなかった。

 西側においても、スターリンによる和解案に耳を傾けたのはチャーチルだけだった。

 スターリンは、西側諸国も自分と同じように、イデオロギーではなく「現実政治」に則っていると誤解していた。

 実際は、アメリカは終戦直後のスターリンの頑固さに反発し、理想主義に基づいて動いているのだった。理想主義の世界では、ソ連との妥協はありえなかった。

 1955年のジュネーブサミットで、ドイツ統一問題は棚上げされた。米ソを軸とする冷戦体制が確立し、ある程度の安定がもたらされた(デタント(雪解け))。

 しかし、フルシチョフは在任中様々な手段で西側の封じ込めに挑戦し、結果ソ連国益を損なった。

・アデナウアーは偉大な政治家と評価を受けている。かれは、ドイツ統一を棚上げし、西側との関係強化を指向した。

 統一されたドイツは、必然的にヨーロッパの脅威となることをアデナウアーは認識していた。

 

  ***

 ◆スエズ動乱

 スエズ戦争について。エジプトの大統領ナセルは、1956年、アラブ・ナショナリズムを鼓舞し、スエズ運河の国有化を宣言した。それ以前から、ソ連は中東での権限強化のためエジプトに武器を援助していた。

 スエズ問題をめぐって、米国と英仏は分裂した。英仏は、従来の植民地権益が奪われることを恐れ、武力介入を主張した。米国は、スエズ問題を植民地的なものととらえ、英仏の介入を懸念した。

 エジプト自身はソ連の衛星国になろうとしたわけではなく、あくまで冷戦を利用してアラブの独立を達成しようとしていた。

国務長官ジョン・フォスター・ダレスは、非常に理想主義的、宗教的な人物だった。現実主義のイーデンはかれを忌避した。

・米国は倫理に基づいて英仏イスラエルの武力介入を阻止したが、ベトナム戦争で仕返しをされ、単独で武力行使をすることになった。

 また、スエズ戦争と同時期のハンガリー動乱との間で、米国の行動には一貫性がない。

ソ連は武器援助の形式を利用し、その後も第三世界への介入をつづけた。

 

  ***

 ◆ハンガリー動乱

 スエズ戦争と同時期に起きたハンガリー動乱において、米国はソ連の武力介入に対し何も手だてを打たなかった。

 武力の行使による利益獲得を非難する米国の倫理からすれば、ハンガリーへのソ連の介入は正当化できないもののはずだった。

 米国は、英仏には倫理を要求し、一方、自国は、直接国益の関わらないハンガリーのために犠牲を出すことを拒否した。

 

  ***

 ◆ベルリン危機

 西ドイツの飛び地となっていたベルリンをめぐって、1958年以降、緊張が高まった(ベルリン危機1958~1961)。

 東ベルリンから西ベルリンへの流出が続いており、東ドイツは危機感を抱いた。フルシチョフベルリンの壁を建設したが、ケネディは特に反応しなかった。

 東西どちらも、ベルリンを明け渡すことには納得せず、問題は棚上げになった。

  ***

 

 ◆西側諸国について

 イギリス:チャーチルは自国がもはや覇権国家でないことを知っていた。イーデンはそれに気付かず、スエズ戦争で失敗した。マクミラン首相以降、英国は米国に従属することで自由を得ることにした。

 フランス:伝統的に現実政治に則った国であり、米国の道徳的な外交観には同調しなかった。あくまでフランスの国益が問題だった。フランスの地位向上のために西ドイツと手を組み、ソ連の進出を抑止しようとした。また、ド・ゴールは米国に対して距離を置いた。

 合衆国、フランス双方の要求は通らなかった。冷戦時代には、共通目標に基づく協調が可能となったが、それは一時的なものだった。冷戦終了後、国益ナショナリズムの衝突が復活した。

 

  ***

 ◆ベトナム戦争

 ベトナム戦争の契機は、トゥルーマンアイゼンハワーにある。

 トゥルーマンは封じこめ政策を提唱し、さらにアイゼンハワーは自由国家と民主主義を守るというウィルソン主義を推し進めた。

 米国は自由国家を守るためにインドシナに介入したが、結果は理想とはかけ離れたものになった。

 米国は自国の権益を離れて、価値や倫理に基づいて行動した。しかし、そもそもベトナム共産主義化が米国の脅威になるのか、ベトナムソ連の傀儡なのかという前提を検証することがなかった。

 トゥルーマン時代には、「ドミノ理論」の萌芽が見られた。

 政治家たちの間で、ミュンヘン会談の教訓が強迫観念として残っていた。それは、「敵は早いうちにあらかじめ排除しなければ巨大化する」というものである。

 トゥルーマンは、フランスのインドシナ支配を支援しつつ、現地人の独立を促すという矛盾した政策を実施した。

 フランスはゲリラ戦争に敗れ撤退した。しかし、米軍人の南ベトナム軍に対する教育は、伝統的な戦争に即したものだった。

 チャーチルド・ゴールは、東南アジアに権益はないとみなし、米国に協力しなかった。SEATOは東南アジア諸国と米英仏との反共同盟だったが、英仏が拒否権を行使したため、一度も統合作戦は行われなかった。
  ***

 

[つづく] 

 

Diplomacy (Touchstone Book) (English Edition)

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『Diplomacy』Henry Kissinger その3

 ~戦間期から冷戦の始まりまで~

 

 ◆ヒトラーの台頭

 ヒトラーが台頭し、ドイツはヴェルサイユ条約を放棄した。戦勝国は分裂し、国際連盟は、1932年の満州事変で既に明らかになったように、無力だった。

 キッシンジャーは、イタリアのエチオピア侵略を黙認してでも、ドイツ包囲網を築くべきだったと考える。実際はその逆になり、英仏はイタリアに経済制裁を課し、ドイツと妥協した。

 ストレーザ戦線は、英仏イタリアの連帯を目指すものだったが、イギリスがドイツと単独宥和政策(海軍協定)をとったことにより失敗した。

 ヒトラーヴェルサイユ条約を盾にラインラント進駐とオーストリア占領、ズデーテン地方併合を実行した。しかし、倫理規範……民族自決の原則を破ったことで、英仏からの信用を完全に失った。これがヒトラーの破滅の兆候となった。

 ラインラント進駐に対しフランスが進軍していれば、ドイツは即時撤退し、ヒトラーの脅迫外交は終結していただろうと著者は考える。

 ミュンヘン会談は、当初歓迎されたが、ドイツがチェコに進駐すると評価は一変した。

 キッシンジャーの考えでは、ヒトラーの台頭を許したのは理想主義と集団安全保障である。

 キッシンジャーが勢力均衡と現実主義を重視する原点は、ヒトラーにあるのではないかと推測する。

 

民族自決、諸国の平等の原理を固守したため、ドイツのドイツ人居住地域併合と再軍備を許した。

・たとえ国際連盟の理想に反していようと、イタリアと妥協し、ドイツの復活を阻止するべきだった。

 

  ***

 ◆英仏ソの不和、第2次世界大戦

 スターリン共産主義者だが、外交においてはリシュリューと同じく現実主義者だった。

 ナチズムと共産主義の協調はありえない、と考えた民主主義諸国の方が、イデオロギーに基づいた外交を行っていたといえる。

 ミュンヘン会談は、ドイツの東方膨張を容認するように思われた。スターリンは、英仏との同盟に懐疑的だった。ソ連に対しドイツをけしかけて、英仏だけが逃げる可能性があったからである。

 スターリンは自国の安全と領土の奪回を達成するため、独ソ不可侵条約を締結した。

  ***

大衆社会の世紀が、ヒトラースターリンという1人の人物によって振り回されたのは皮肉である。

・フランスはマジノ線にこもったまま何もせず、やがてドイツ軍はマジノ線のないベルギーを通ってフランスを侵略した。

ソ連フィンランド戦争に対して、英仏はフィンランドを支援しようとした。独ソ双方を敵にまわしたという点で、英仏は現実主義を見失っていた。

スターリンヒトラーが合理的に行動すると考えていた。最終目標がロシア侵略であることはわかっていたが、二正面作戦を開始するとは予想できなかった。

ヒトラーソ連侵攻の賭けに出た結果、負けた。

スターリンは外交においては忍耐強く、現実主義的である。一方、ヒトラーは戦争を求めており、辛抱ができない。

ヒトラーには原則があるが戦略がなく、スターリンはその逆である。

  ***

 

 ◆戦後の外交

 第1次大戦以降、孤立主義的だった合衆国を参戦に導いたルーズベルトに関して、キッシンジャーの評価は大変高い。

 長く孤立主義的だった国民の世論を、ルーズベルトは談話や外交によって徐々に変えていき、対日参戦前夜にはヒトラーを打倒すべきとの意見が多数となっていた。

 ルーズベルトヒトラーが国際秩序の障害になり、またドイツの覇権を許せば米国にも影響が及ぶと考えていた。かれはレンドリース法により英ソ中を支援した。

 米国の参戦を後押ししたのは、枢軸国の強硬な態度だった。

  ***

 米英ソそれぞれの外交政策について。チャーチルは伝統的な勢力均衡を、スターリンは国際共産主義とロシアの拡大政策を主張した。

 ルーズベルトの構想は、ウィルソンの理想主義に続くものである。

・「平和愛好国」米英中ソにより、攻撃的国家日独伊およびフランスを管理するという「4か国警察国家」のアイデアを考案した。

・英仏の植民地主義は廃止する。

 しかしルーズベルトの国際秩序構想とスターリンの「現実政治Realpolitik」は徐々に乖離していき、東欧支配をめぐり意見は分かれた。ルーズベルトスターリンに譲歩した。

  ***

 ◆冷戦の始まり

 ルーズベルトが死ぬと、米英ソの溝は深まっていった。著者はトゥルーマンを高く評価する。かれはルーズベルトを継承したが、スターリンの拡大主義には譲歩しなかった。

 徐々に米ソの相互不信は高まっていった。スターリンは、西側が反発することを予想できなかった。

  ***

 

 ◆封じ込め政策

 封じこめ政策の開始について。

ジョージ・ケナンは、ソ連と民主主義国との対立は本質的なものであり、封じこめる必要があると主張した。

トゥルーマン・ドクトリンは、イデオロギーの対立を明確化したもので、冷戦を決定的にした。

・米国は現状の勢力圏を保持し、ソ連を封じ込めるため、自由と民主主義を理想とする外交方針をとった。これはウィルソン主義の再来であり、その是非について現在でも論争を招いている。

・軍事力と経済力による影響力の確保……マーシャル・プランとNATO

・米国は西欧諸国との軍事同盟であるNATOを成立させたが、既存の同盟ではなく、原理に基づく集団安全保障だと主張した。

ソ連は東欧各国において共産党や反乱分子を操り傀儡政権を成立させていった。

 

 一方、封じ込め政策に対しての反論には次のようなものがあった。

・軍事力の差がある終戦直後のうちに、ソ連の拡大主義を抑止するべき(チャーチル)。

・原則に基づいて他国を支援することは米国の国益にならず、無用なコストになる(ウォルター・リップマンら現実主義者たち)

・東西は政治思想が異なるが、共存できるはずだ(リベラル派)。

 

 このようにして米国は、戦略ではなく、価値を重んじる理想主義に方向転換した。

 冷戦は、共産諸国の体制変革を目的としていた。自由と独裁との戦い、善と悪との戦いが主眼となった。

 チャーチルは、完璧な理想を求める米国の戦略が失敗すると予測していた。

 英国は歴史上、多くの不完全さと妥協することで事態を解決してきたからである。

 

ジョージ・ケナンの予測……共産主義体制は自壊するだろう。

・リップマンの予測……封じこめ政策により米国は消耗し、国益を見失うだろう。

 

 [つづく]

 

Diplomacy (A Touchstone book)

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