うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『寺院消滅』鵜飼秀徳 ――衰退していく寺院、世俗化された坊主


 全国には7万7000の寺院があり、うち無住寺院は2万、不活動寺院は2000以上である。寺院消滅の問題は、地方の消滅(高齢化、過疎化、人口流出)とつながっている。

 本書は、社会構造の変化と寺院との関係に焦点をあてる。

 

 1

長崎県五島列島宇久島には、消滅寸前の寺院、神社が多数存在する。過疎化のため檀家は減り、住職も寝たきりや、年金で食いつなぐ者が多い。

 

 ――……寺が専業で食べていくには、少なくとも檀家数は200軒なければ難しいと言われる。それも地域差はある。200軒以下であれば、住職が副業を持たなければ、生計を立てていくのは厳しい。

 

福沢諭吉は1901年に死亡した。かれは自分の宗派たる浄土宗と異なる、浄土真宗の墓への埋葬を希望していたため、改葬をめぐって騒動が起こった。

 地方から都会への改葬にまつわるトラブルが今後増加する見込みである。

 

 「永代供養」であっても、管理費の支払いを怠った場合、撤去されるおそれがある。

 

島根県石見銀山付近は、戦国から江戸時代にかけて炭鉱町として栄えていたため、多くの寺院がつくられた。現在は、過疎地のなかに大量の無住寺院が残されている。

・無住寺院、空き寺は盗難や倒壊、犯罪の温床となっている。僧侶側も、傲慢な者が多く檀家の心が離れていく。無住寺院の檀家をターゲットに、新宗教の勧誘が行われる。

・震災寺院の復興は、政教分離の原則によって、国や自治体からの援助が受けられないため、難航している。

・尼僧寺院は自然消滅する傾向にある。尼僧は本山の付属的な地位しか持たず、檀家を持たない。また、尼僧が副業をするのは、頭髪等の点から困難である。

 

 

 2

・『お寺の収支報告書』の著者、橋本英樹氏について。

 遺骨をゆうパックで配送し、供養してもらう制度や、檀家制度の廃止等を紹介する。

 

・歴史上、寺が建立されなかったのは江戸初期1631年「新寺建立禁止令」の発布後と、明治期の廃仏毀釈のときである。

 

 ――宗教活動だけで食べていけない寺院の中には、「サイドビジネス」を展開しているところも多い。幼稚園経営や駐車場経営、物販などだ。それはそれで、寺院を存続させるための1つのアイデアだ。

 

 ――しかし、赤澤さんの試みの特徴は、僧侶という立ち位置を一切変えず、よりよいものを追求する姿勢にある。

 

・定年後に僧侶になった横河電機役員は、「リタイア後は僧侶になれ」とスカウト活動を行っている。

 こうした老人僧侶たちが、わたしたちに先輩面して説教してくれるということだろうか。老人は老人同士で、自己完結していてほしいものである。

 

國學院大學の研究者石井研士はインタビューにおいて、今後地方の衰退に併せて寺院・宗教も衰退するだろうが、それは国民が選んだ結果である、と述べる。

 石井氏は、宗教の衰退とは文化の衰退であると考える。

 

 

 3

・鹿児島は特に廃仏毀釈運動の激しかった地域で、1872年には2000人以上いた僧侶がゼロになり、寺院も消滅した。

 江戸末期の国学者平田篤胤が創始した神道思想が武士らに普及し、1868年の神仏分離令によって仏教勢力の弱体化が図られた。

・日本では、国家権力は常に宗教を利用してきた。

・鹿児島では、キリスト教だけでなく一向宗浄土真宗)も取締の対象となった。島津家は、一向宗による団結と一揆を警戒した。

 

 ――権力と宗教のせめぎあいを見ると、時代や国籍、民族を選ばず、「弾圧」と「地下潜伏」が繰り返されている。そうしていきつく先は、いつも「流血」である。

 

・仏教はアジア太平洋戦争に協力的な姿勢をとった。ほぼすべての宗派は、軍に兵器を寄贈した。

 仏教は日清戦争から従軍僧を派遣し、また植民地にも積極的に寺院を設立した。

 

 ――「聖戦のためであれば敵を殺すことを容認する」「敵はもはや人間ではない。人間でなければ、殺しても不殺生戒を破ったことにはならない」……

 

・寺院の多くは「寺領」を持つ地主だったため、GHQの農地改革によって土地を解体され、収入を絶たれた。

 

・仏教関係者のインタビュー……

 お布施の「見える化」はいずれ宗教ビジネスへの課税につながるのではないか。

 家の宗教から個の宗教への転換が始まっている。

 日本の僧侶に清貧と高潔を求めるのは困難である。僧侶は、アメリカの牧師よりも俗世に近い存在なのが現状である。

 

 

 4

 各宗派の統計資料

  ***

 明治期、国家仏教から国家神道への移行により、仏教は大きな打撃を受けた。さらに、肉食・妻帯許可が俗化に拍車をかけた。

 今後、高齢化、地方消滅に併せて、仏教も衰退していくのではないかと著者は危惧している。

 

寺院消滅

寺院消滅

 

 

  ◆関連本メモ

the-cosmological-fort.hatenablog.com

 

『フランス革命 歴史における劇薬』遅塚忠躬 ――革命の光と闇

 フランス革命が、フランスの歴史、フランス国民にとって劇薬であったことを伝えるという趣旨の本。

 著者は、革命が人間の偉大(理想)と悲惨(現実の殺戮、恐怖政治、戦争)を体現していると考える。

 岩波ジュニア新書ということで、子供向けにわかりやすく書かれている。

 

 

 1 

 フランス革命の理想は、この世の不幸や悲惨を絶滅して人間の尊厳を回復することにあった。ロベスピエールサン・ジュストは、国民の生存権こそが最重要であると説いた。

 フランス革命は、紆余曲折を経て「自由・平等・友愛」の価値観をある程度実現させることができた。一方で、革命は恐怖政治や戦争を引き起こした。

 キュリー夫人は、フランスの自由な空気に憧れてソルボンヌ大学に入学した。しかし、革命については、科学者ラヴォワジェを、かれが徴税請負人であったという理由で処刑したことから、その意義を否定した。

 著者はフランス革命を劇薬と考える仮説を提示する。

 

 

 2

 フランス旧体制の行き詰まり

・18世紀末、フランスは、世界貿易と植民地の覇権をイギリスに奪われつつあった。

・工業力はイギリスに比べて遅れていた。第三身分(平民)のブルジョワ中産階級)たちは、国内の体制変革を求めた。

・旧体制……身分制(聖職者、貴族、平民)、領主制、絶対王政

絶対王政下でも貴族の特権や領主制が既得権益として残されたため、平民の間には不満が蓄積した。

・革命の担い手は、2つの社会階層……ブルジョワと民衆・農民だった。かれらはお互いに異なる要求を掲げていた。

 

 ――ブルジョワが求めていたのは、……資本主義の発展のための、自由と、所有と、権利の平等でありました。ところが、民衆の求めるパンの価格統制は、経済活動の自由とまっこうから対立しますし、農民の求める土地の分配は、土地の所有権に対するまっこうからの挑戦でした。そして、民衆や農民がパンと土地を求めるということ自体が、財産の不平等の是正を求めるということを意味します……。

 

 フランス革命は、貴族と第三身分の対立であると同時に、ブルジョワと民衆・農民の対立でもあった。

 

 

 3

 革命の前に、王権と自由主義貴族との対立が発生していた。貴族に課税しようとする赤字財政の王に対し、貴族が抵抗した。

 1789年……全国三部会の開催。全身分合同の国民会議の誕生と、憲法制定の方針(球戯場の誓い)。

 7月14日にバスティーユ牢獄の襲撃。地方での領主に対する暴動。

 8月4日の封建制度廃止と、26日の「人権宣言」。

 人権宣言の内容……「人間は、生まれながらにして、自由であり、権利において平等である」。国民主権参政権、所有権の神聖不可侵。

 その後の革命は、反革命(貴族サイド)と徹底的革命(民衆・農民サイド)との間をぶれながら進行していく。

 

 1792年、オーストリアプロイセンとの戦争が始まる。大衆蜂起により反革命路線が崩壊し、王政が倒れ共和国となる。

 しばらくの間、大衆の反資本主義運動が優勢となるが、1794年のテルミドールクーデタによりロベスピエールが失脚し、再転換となる。

 1799年、ブリュメールのクーデタによりナポレオンが支配権を握る。

 1791年のル・シャプリエ法は、私的な独占・談合を容認しており、また労働者の団結を禁止していた。このため、貧しい人びとは不満を抱いた。

 

 ジロンド派……ブリッソ、ヴェルニオ、コンドルセ

 山岳派ジャコバン派)……ロベスピエール、ダントン、マラー

 

 山岳派は大衆の圧力を利用してジロンド派を議会から追放し、公安委員会に権力を集中させた。93年から1年間、恐怖政治が行われた。

 

 政治的デモクラシー(参政権の平等)は、19世紀終盤に実現した。

 社会的デモクラシー(社会的地位の平等)は、民衆・農民の理想ではあったが、実現は困難だった。

 革命時に課題とされたパンの問題(食糧価格の統制)、土地の問題(土地の分配)、福祉の問題(公的扶助と生存権)について。

 

 ロベスピエールが処刑された後、95年に「総裁政府」が樹立した。

 

 ――総裁政府のもとで、左翼からは、平等主義の社会をめざすバブーフが政府転覆の陰謀をくわだて、右翼からは、王政の復活をめざす王党派が政府攻撃を強めます。左右両翼からの脅威を前にして、ブルジョワは、ただ軍隊の力に頼るほかはありません。

 

 こうしてナポレオンが台頭し、クーデタで権力を掌握した。

 

 

 4

 大衆運動の2つの面

・秩序だった要求

・血みどろの暴動……不安と恐怖、リーダーの不在、扇動者

 

 ジャコバン独裁=恐怖政治をもたらした原因……

・貴族・ブルジョワ・大衆の利害対立が深刻であり、話し合いで解決するレベルではなかった。

・「敵対者は一般的利害を顧みず個別的利害を重視している」と主張し、正義感に基づく異論の排除を行った。

 

 ――……こういう正義感こそが、寛容の心を失わせ、人間を残酷にします。

 

・恐怖政治は大衆運動と連携した。

 

 ――「革命時における人民的な政府の原動力は、徳と恐怖である。徳のない恐怖はいまわしいが、恐怖のない徳は無力である」

 

 恐怖政治時代に、革命裁判所によって処刑された人数は3万人から4万人である。

 

 

 5

 テルミドール以後、山岳派は迫害・追放され、王政復古後は「国王殺し」として永久に国外追放となった。

 

 ――フランス革命は、リーダーも大衆も含めて、偉大でもあり悲惨でもある人間たちがあげた魂の叫びであり、巨大な熱情の噴出であった、と私は思います。

 

フランス革命―歴史における劇薬 (岩波ジュニア新書)

フランス革命―歴史における劇薬 (岩波ジュニア新書)

 

 

最近の買い物 ――日本史、マリオネット、

 ◆関東大震災

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

 

 

 『証言集 関東大震災の直後』が良い本だったので似たような本を買った。

  この本で証言されている虐殺やリンチの光景は、諸外国の事案と酷似している。わたしは読んでいる間中、ポグロムボスニア紛争、グァテマラの先住民ジェノサイドに関する本を連想していた。

証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人 (ちくま文庫)

証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人 (ちくま文庫)

 

 

 

 ◆日本史関係

 

 

 藤原彰の『飢死した英霊たち』は非常に面白い本だった。

 最近、ちくま学芸文庫で復刊したようである。

 

餓死した英霊たち (ちくま学芸文庫)

餓死した英霊たち (ちくま学芸文庫)

 

 

 

警察の社会史 (岩波新書)

警察の社会史 (岩波新書)

 

 警察の成立について知るために買った。

 

裏社会の日本史 (ちくま学芸文庫)

裏社会の日本史 (ちくま学芸文庫)

 

 タイトルだけ見るとコンビニで売っていそうだがAmazonレビューは高評価である。

 

 

 

 ◆人形劇、人形制作

  趣味のゲーム制作の一環で、自分が粘土でつくっている人形(のようなもの)が活かせないかと考え買ってみた。

 人形の動画を取り込んで何か作れればいいなと思っている。

Marionettes: How to Make and Work Them (English Edition)

Marionettes: How to Make and Work Them (English Edition)

 

 

Making And Manipulating Marionettes

Making And Manipulating Marionettes

 

 

 

 

『英雄なき島』久山忍 ――硫黄島の戦いと名将の実態

 海軍航空隊の要員として硫黄島の戦いに参加した大曲覚(おおまがり・さとる)海軍中尉の回想録。

 

 ◆所感

 所在航空部隊である海軍の、さらに下級士官からの視点ということで、末端の雰囲気や状況がよく伝わってくる。

 防空壕での日本兵たちの生活は、完全に別世界の出来事のようである。

 特に印象に残ったのは次の点である。

 特色は栗林中将に対する否定的な評価である。末端作業員としての一面的な評価だからこそその実態を示していると思料する。

 

・実際に会った栗林中将の印象は、典型的な、傲岸な陸軍の将軍だった。

・現場は地獄のような環境だったにも関わらず、中将は家族に大量の手紙を書いて、家族思いの評価を受けている。

・日本軍のゲリラ戦の実態……最初の数日で抵抗は終わり、後は穴にひそんで逃げ回り、米軍に狩られるのを待つだけだった。

・直接の指揮系統関係にない陸軍と海軍との微妙な関係

 

 ◆昔話

 硫黄島には海と空の公務員が所在しておりわたしも昔、所用で行ったことがある。

 壕はモグラの穴のようなもので、地面からほんの1メートル降りただけで灼熱サウナ状態であり、一瞬で汗だくになった。外は沖縄並の暑さにも関わらず、防空壕を出たとたん非常に涼しく感じた。

 なぜここに公務員が配置されて維持管理しているかといえば、自分たちだけでなく米軍も訓練等で使っているからである。

 たまに業者の船が来るので釣りに連れていってもらうことがあるという。

 

 

 ◆将軍

 日本軍のいわゆる「名将」(栗林、山本、今村、東郷等)は、自〇隊のなかでも平均的に高い評価を受けている。これは、一般社会とそう変わらないのではないかと思う。

 しかし、現役の将官たちについては、「パワハラがすごい」、「わがまま」、「借りた本を返さない」、「政治家にうまく取り入って出世した」、「ケチ」等様々な悪口を聞く。

 実際に仕事で関わった幹部などは「あの人はいい人」、「バランスがとれている」などとコメントすることもあるが、6.5から7割はどちらかといえば悪口である。

 これが組織を出て民間人の視点になると、どの将官もすばらしい名将扱いになる。

 今、歴史上の人物となった将軍たちも、もしその場で実際に関わっていればどういう印象を受けたかはわからないと思った。

 

 

  ***

 硫黄島の戦い 1945.2

 陸軍 栗林兵団 13.700人

 海軍 第27航空戦隊 市丸利之助少将

    南方諸島海軍航空隊 井上大佐

    硫黄島警備隊 和智中佐

    計7.500人

 

 

  ***

 1

 著者は海軍の勧誘にひかれて、予備学生を志願した。学生時代の軍事教育で、兵隊(下士官、士官ではなく)がこきつかわれる実態を目の当たりにしていたので、将校枠に応募した。

 任地希望調査はあったが、「内地に残りたい」といったら殴られた。戦地へは強制志願だった。

 航空適性がなく、航空機整備を担当する整備予備学生となった。

 

 硫黄島マリアナ諸島サイパン島と本土との中間にあり、米軍は本土爆撃の中間点を抑えるために硫黄島攻略を決定した。

 日本軍は従来のバンザイ突撃戦法をとりやめ、ペリリュー島の戦いで有効だった持久戦に方針を切り替えた。

 

 

 2

 米軍をどのように迎え撃つか、陸軍、海軍が集まって会議が行われた。結果、陸軍の持久戦が採用された。

 

 陣地構築……部隊ごとに防空壕を掘り、部隊内で横道を作りそれぞれを連結する。

 また、蛸壺を掘り、中に潜んで米軍を迎え撃つ。

 地熱や硫黄ガスがひどく、また水がないため、水不足に悩まされた。

 水がないため蚊はいないが、そのかわりに蠅が人糞にたかり、アメーバ赤痢が流行した。

 

 陣地構築が始まると間もなく衰弱するものが続出した。当初は、船で横須賀病院に搬送されていたが、全員が助からずに死亡したため、病院から「搬送拒否」の通達が届いた。

 

 栗林中将について……

・兵を酷使し、多数が衰弱死・病死した。

パワハラがひどく、現場にいた海軍中尉(この本の語り手)をどなりつけた。

・エリート意識が強かった(陸大本科出身であるため、専科出身者を差別した。また、予備役を蔑視していた)。

・兵たちに地獄の穴掘りを強いる一方、自分の家族にはたくさん手紙を書いていた。

 

 

 3

 現場の戦闘員たちは、アメリカが硫黄島を素通りしてくれればいいと願っていた。しかし、ある日著者が海岸を見下ろすと海面を覆うような大艦隊が終結しており、これはだめだと悟った。

 米軍の艦砲射撃は激しく、地形が変わり、壕を出ると道に迷って戻ってこられないことが多かった。

 米軍は滑走路にはいっさい砲撃せず、活用しようとしていることが明らかだった。

 海軍の装備……銃が全員にいきわたらない。

 

 

 4

 海軍のロケット爆弾が、米側に大規模な損害を与えたのではないか、という仮説。

 

 

 5

 地上戦の様子について。

 

・「総攻撃」とは、指揮官の指揮放棄である。総攻撃を命じた後、兵隊は死ぬまで突撃するしかない。指揮官は、これを持って部隊が全滅したこととなり、以後は責任を追わなくなる。

・海軍側で総攻撃が命じられたが、兵たちは散り散りになった。生き残った兵隊は陸軍の壕に入れてくれと頼みこみ、許可された者たちは壕の住人となった。

・海軍の壕では、総攻撃を命じられた者は死んだ者扱いなので、入れてもらえなかった。

 

・陸軍に組み込まれた海軍兵は、陸軍兵とともに肉迫攻撃に参加するが、なぜか途中でいなくなるものが多かった。

 著者が実際に行ってみると、肉迫攻撃の際には、日本兵の屍体からはらわたを抜き出し、自分のからだにまとわなければならなかった。

 

 ――「海軍さん、それではだめです」

   と小声で指摘を受けた。

   「……?」

   「死んだ者のはらわたを取り出して、自分の体に塗って、負傷して死んだように見せかけるんです」

   「……」

   私は言葉をなくした。そして小声で、

   「そんなことはできない……」

   と言ったが、

   「そうしなければ敵にさとられてやられてしまう」

   と説得された。

    (略)

   「なるほどこれでは海軍は逃げる」

   と逃亡の原因が初めてわかった。そして、こんな作戦を出すことじたい、日本軍は末期的な状況だ、と思った。

 

・指揮官が現場を知らずに不可解な命令を出すことが多かった。指揮官は、壕の中にいたまま外に出ることがないからである。

・戦車隊の西中佐が、米軍に広く知られていたという伝説が残っているが、実際に聞いたことはないという。

 

 

 6

 壕の住人たち……

・水の取り分を原因に敗残兵同士で殺し合いが行われていた。

・米軍の掃討……投降の呼びかけ、発煙筒、毒ガス、ダイナマイト、火炎放射、海水を注入してからガソリンを入れて火炎放射

・「捕虜になってはいけない」という指示が徹底されていた。

・夜になると、砲撃の合間を縫って外で食糧探しが行われた。たまに米軍の捨てていった糧食やビールが見つかり、歓喜した。

・腐った水……水飲み場を米軍が狙い撃ちしたため、水槽には日本兵の屍体がたまった。

 夜、その水槽から水を飲むと、日本兵の肉片が歯にひっかかった。

 

 米軍は嫌がらせのために水場に黄燐弾を投げ込んだ。その水はとても苦かった。

 

・持久戦の実像

 

 ――何度もいうが、米軍が上陸する以前に日本兵は戦争ができるような状態ではなかった。体力的に衰弱し、立っているのがやっとの兵ばかりだった。

 

 ――防空壕の中でじっとしていたから長持ちをしたのである。……米軍が安全を優先し、防空壕の中に入っていかなかったから、外に出てこない日本兵にてこずったのである。

 

 

 7

 南方空の壕について。

 

・どこの壕でも負傷者の看護はせず、苦しんでいる者がいたら絞め殺した。

・南方空の掟……壕の食糧を温存するため、毎日数人を斬込隊と称して追い出していた。斬込隊となった者は壕に再入場はできなかった。

 著者たちは、南方空の壕に入ろうとしたが、「新規入場は受け付けない」と言われたので、死を覚悟して突入し、何とか受け入れられた。

 

 壕を統治していた飛行隊長は、まったく外に出ていなかったため、妄想的な計画にとりつかれていた。

 かれは「米軍から飛行場を奪取し、内地に帰る」といって部下を連れて壕を出た。しかし、怖気づいてすぐに戻ってきた。

 

 ――大尉らが壕に入ろうとしたとき、兵士の一団が入り口をふさいだのだ。大勢集まってざわざわぎゃーぎゃー騒ぐ声がする。……

   「飛行長たちはかえってきました。当然のように入ろうとしましたが、我々は絶対に入れない」と兵たちは大変な剣幕だった。

   「俺らの同僚たちがあなた方の命令で斬込隊として壕を追い出されるように出て行った。あなたの命令で我々兵隊が何十人と斬込隊として出されました。かえってきた者にあなたたちはどうしたか覚えているでしょう。ひざまずいて、土下座して、入れてくれと涙を流して頼んでも、拳銃を突きつけて追い出したではありませんか。あなたは、これは壕の掟だといって彼らを追い出した。同僚たちはどこかで死んでいったのですよ。あの同僚たちのためにも絶対に入れることはできない。あなたがたがつくった規則ではないですか。守ってください。我々は絶対に入れません」

 

 飛行長は武士の情けで一晩だけ壕に入れられた後、出て行ったが、その後の消息は不明だという。

 

・壕では全員が裸で過ごしており、指揮官だけがふんどしをはいている。よって、見知らぬ壕に入ったときはふんどしの者を見つけて交渉する。

・壕に入る際は、水を1口や半口がお金の代わりにやりとりされる。

 

 

 8 投降

 米軍に投降する際、兵たちは自分たちの意思ではなく、上官の命令で投降させられたということにしたかった。このため、中尉だった著者は責任者に祭り上げられた。結果、著者の命令で壕の兵たちがまとめて投降することになった。

 

 米本土に移送されたのちに「JAP UNCONDITIONAL SURRENDER」の文字を確認した。

 

 捕虜たちを世話していた日系人下士官から、日本軍が、病院船を使って武器弾薬を輸送していたことを知らされた。

 

 ――軍艦を病院船に偽装して戦争につかうなど、どこの国もやっていない卑怯な行為であった。

   その(日系の)下士官は、

   「私は父や母から、日本は武士道の国だ。何事も正々堂々と行動する国民だと聞かされた。しかしそうではなかった」

   と声を震わせてつぶやいた。

   多くの日系二世たちがそのようなことを父母から聞かされ、それを信じていた。そしてその誇りを胸に、アメリカ人に負けぬよう欧州で戦った。

   その仲間たちの多くが戦線で戦死した。彼らが卑怯な日本の振る舞いを知ったら、どんなにか残念に思うだろう。そう彼は語った。

 

 

  ***

 著者は、壕での異様な世界を経験した後、人間性を失わせるものは「飢えと渇き」であると感じた。