うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『特攻体験と戦後』島尾敏雄・吉田満 ――元特攻隊作家同士の対談

 震洋特攻隊長だった島尾敏雄と、戦艦大和の沖縄特攻に搭乗し、生き残った吉田満との対談。

 両者とも、自身が体験した極限状況を題材におもしろいフィクションを制作している。

 

 2名は、淡々と当時の状況や雰囲気を語る。かれらは特攻作戦の異常性について指摘する。

 

  ***

・陸軍よりは海軍の方が、まともな生活だろうという認識があった。

・昭和19年、島尾敏雄が特攻隊員に指定されたのは、神風特攻(1944.10開始、航空機特攻)より早い時期だった。

 後に『海軍反省会』等で指摘されていたように、特攻は下級将校や現場の熱望によって始まった作戦ではなく、中央部が計画した行為だった。

・2人が特攻の準備をしていたときは、東京への空襲もまだ始まっておらず、内地は平和だった。しかし、なんとなく負けることはわかっていたという。

 

 当時は、若者のだれもが死を覚悟しており、生き残るということは考えていなかった。

 

 ――ああいうふうに、どういうんですか、全体がいきり立っているときに、よほど自分になにか確かな信念と思想があるのでなければ、そうでないこと、つまり志願しないということは非常に困難だ、そういう雰囲気はあったかもしれませんね。

 

 ――戦闘というのは、ともかく肉体労働ですよ。敵の爆弾や機銃弾がどんどん飛んできたら、やれるだけやるしかない。

 

 ――弱くちゃ困るんだ。やっぱりいくら優しくたって、戦闘のとき用にたたなければ……(笑)。部下の方まで怖くなっちゃうですからね。そこら辺が戦争ですね。

 

  ***

・敗戦を境に、特攻者への市民の態度は急変した。島尾の小説のなかにも表現されているが、市民はよそよそしくなり、冷淡になった。

 

  ***

・沖縄人と東北人の共通性について

・沖縄での評判が悪い沖縄県知事、奈良原繁

 

  ***

 特攻を生き延びた2人とも、戦後はうつろな日常を生きてきたと回想する。

 

  ***

 ――学徒兵なら、特攻隊に行っても、泳いで、敵につかまって、学徒兵らしく捕虜になったらよかったじゃないか、といわれたこともありますが、内地にいる家族に対するね、日本の軍隊のみせしめの仕打ちというのが恐ろしくて、正直とてもできなかったですね。

 

 ――いい人間もいるから、ますます全体が悲劇なんですね。戦争しているのが、みなよくない人間ばかりだったら、悲劇の底は浅いです。……実際、戦争の中には、いい人間も、悪い人間もいましたね。いい人間が、なぜそんな戦争なんかしたのか。戦争をやらなかったら、どんな人間になっていたか。これは、私たち世代自身の問題ですね。あるいは、戦後日本という社会の……。

 

  ***

 特攻志願の動機は、少しでも後代が楽になればいいと思ったというものだった。

 

 

 

 

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南から北 その6 リッチモンド市内観光(ヴァージニア州)

 ◆モンティチェロからリッチモンド

  モンティチェロから車で20分ほど走ったところにあるMichie Tavernで昼食をとった。

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ミッチー・タバーン Michie Tavern

 

 この食堂は1784年に 開店し、以後所有者が州に変わり、場所を10マイル程度移してからも営業を続けている。

 店員は皆18世紀の衣服を身に着けていた。食事は食堂ビュッフェ形式で、野菜や炭水化物をとった後にメイン(鶏肉、牛肉等)を選ぶというものだった。

 食器やコップも、古風なものを使っていた。

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店内は薄暗い

 

 その後、ヴァージニア州リッチモンドへ向かった。

 

 

 ◆南北戦争博物館

 リッチモンドは人口約22万の州都で、市内には古い橋や街並みが多く残っている。南軍の指揮官たちが並ぶモニュメント・アベニューも健在である。

 このブログで、近年ロバート・E・リー像が撤去される傾向にあると書いたが、モニュメント・アベニューの像は、戦争記念碑ということで州の許可なしに撤去することが禁じられている。

 

 南北戦争博物館(Amerian Civil War Museum)はジェームズ川沿いに位置しており、わたしが訪問したちょうどその日に、全面リニューアルが完了したということだった。ほぼすべての展示物が、旧館から新館に移されており、セレモニーが行われた形跡があった。

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新しくオープンした博物館

 博物館の横には、国立公園事務所があり、パークレンジャーリッチモンドの歴史地区を紹介してくれた。

 そのときのレンジャーが、お経のような喋り方でひたすら説明を行うので、マシンではないかと疑った。

 海兵隊の人間がよくこういうお経喋りをするが、このレンジャーも退役海兵隊だったのだろうか……。

 

 

 

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軍装

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徴兵くじ

 上の写真は北軍側で徴兵の際に用いられたくじ引き機械である。

 ニューヨークでは1863年、徴兵に不満を持ったアイルランド系移民、労働者階級が暴動を起こし、軍が出動した。

 富裕層は300ドルを支払い徴兵を免除できたため、かれらの不満は富裕層と、自分たちの雇用を奪う可能性のある黒人たちに向けられた。

ja.wikipedia.org

 

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奴隷市場の複製

 奴隷市場の広告や開催案内は、リッチモンドの博物館だけでなく、南部の様々な資料館で見かける。

 上の写真では、各奴隷の特徴(名前、年齢)が記載されているが、別の案内では特徴やスキル(調理、農作業等)も挙げられている。

 奴隷が単なる比喩ではなく、本当に所有物・財産として扱われていたことを示す生々しい文物である。

 

 

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KKKの勃興

 ジェームズ川沿い、博物館のすぐ横に並んでいるTredegar Iron Works(トリディガー鉄工所)は、1836年から20世紀半ばまで稼働した。

 南北戦争時には、南軍の使用した砲弾の約半数、また戦艦C.S.Sヴァージニアの装甲などを製造した。

 

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古い鉄工所の外壁

 

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Tredegar(トリディガー)鉄工場跡

 

 ジェームズ川にかかる橋は複数あり、1836年に作られた列車用の橋は火災で焼けていまは橋脚だけが残っている。

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ジェームズ川と橋

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橋の中央部から眺める

 

 ◆エドガー・アラン・ポー記念館

 南北戦争博物館を出たあたりから雲行きが怪しくなり、大雨が降りだした。

 車に乗って10分ほど通りを進み、エドガー・アラン・ポー記念館(Edgar Allan Poe Musum)を見学した。

 ポーの生家をそのまま保存した施設であり、レンガ造りの家と、ひっそりした中庭、そしてポーの胸像を祭った堂から構成される。

 

 わたしが行ったときは結婚式が終わったところで、正装のアメリカ人たちでごったがえしていた。

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エドガー・アラン・ポー記念館の中庭から

 エドガー・アラン・ポーは1809年にボストンで生まれたが、その直後に父が失踪、母は数年後に病死し、リッチモンドの親類に引き取られそこで育った。

 かれは40歳で死んだ。


 ポーは高校生の時に創元推理文庫の全集を読んで、特に「アーサー・ゴードン・ピム」や「ハンス・プファアル」などの冒険物語が好きだった。

 ヨーロッパからみれば文化のない土地とされ、また敬虔な清教徒の多かった合衆国北部で、このようなフィクションや詩を作成したというのがポーの功績であると考える。このような作者は、時代や社会環境から遊離しているものである。

 

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この黒猫は飼っているのだろうか

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寝室

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ポーの胸像

 展示の中に、ポーの敵だった編集者グリズウォルドの肖像画と説明があった。

 グリズウォルドは生前から文芸雑誌上でポーと論争し、ポーが死ぬとかれの伝記を書いた。ポーがアルコール中毒者薬物中毒者であり、狂人であるという俗説はかれによって広められた。

 かれが貶めようとしたポーが文学において不滅の地位を得た一方、グリズウォルド自身は時がたち忘れられた。

ja.wikipedia.org

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中庭

 

 

 ◆ヴァージニア・ホロコースト記念館

 続いて市内にあるヴァージニア・ホロコースト記念館(Virginia Holocaust Museum(VHM))を見学した。

 設立者はユダヤ教会Temple Beth-Elリッチモンド支部で、当初は教会の教育施設を改修したものだったが、訪問者が増えたのでリッチモンド議会とタバコ会社の支援により全面リニューアルされた。

 

 入館料は無料で、ホロコーストにいたるまでの前史や、強制収容所の様子や生存者の証言、ニュルンベルク裁判再現設備などを見ることができる。

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ニュルンベルク裁判の再現

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日系人強制収容と日系人部隊

 施設の一角には日系人強制収容を説明するコーナーがあった。この出来事はアメリカの歴史における反省点の1つとして様々な場面で取り上げられる。

 

 

 

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技能のある者は一定期間生き延びたという

 

 

 ◆敵を呪い殺す宗教

 今読んでいるボンヘッファー自伝のなかにルターに関する言及があった。マルティン・ルターは晩年、反ユダヤ主義的なパンフレットを刊行した。

 当該パンフレットはシナゴーグユダヤ人集落の焼き討ち、強制移住、強制労働などを主張するかなり露骨な内容だった。

 長らくヨーロッパ社会の中で忘れられていたが、ナチ党はユダヤ人を攻撃する際にルターのパンフレットを頻繁に取り上げたという。

 

ja.wikipedia.org

 

 ルターのくだりを読んでまず強く印象に残ったのはかれの罵詈雑言である。ルターは中公の古本で有名なパンフレットだけ読んだが、イメージしたのはレーニンのような凶暴な活動家である。

 

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 旧約聖書でも、敵や不信心に対する罵り、呪いの言葉は非常に多彩である。敵は非常に悲惨な目にあって死ぬだろうと預言され、またエホバは自分の民に対し、敵を容赦なく殺戮し家畜を奪い町を廃墟にせよと命じる。

 

 20世紀のカトリック作家レオン・ブロワも、敬虔なカトリック作家といいながら内容は8割が罵倒だった。糞尿や汚物に異状に執着する悪口は、かれの信仰からくる正しい攻撃である。

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 歴史上用いられてきた攻撃表現、呪詛の言葉について興味があり、いずれ調べていきたい。

  下は、今年中に可能なら読む予定の第三帝国の言語を研究したヴィクトル・クレンペラーの本である。

The Language of the Third Reich: LTI -- Lingua Tertii Imperii: A Philologist's Notebook (Continuum Impacts)

The Language of the Third Reich: LTI -- Lingua Tertii Imperii: A Philologist's Notebook (Continuum Impacts)

 

 

 

メノウの時代のころ

 メノウの時代のころには

 雲はつぶれて

 蜂の巣形状の

 がれきから、

 普賢の頭部が

 浮かび上がったものだ、

 日をあびて。

 

 人びと、そのまわりを

 埋めつくすように

 豚と牛の群れ、

 森のなかから

 頭の上に、金貨をのせて

 号令をかけた。

 
 金貨の表面にある

 あわれみの顔を

 わたしたちは見た。

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『Crimea: The Great Crimean War, 1854-1856』Trevor Royle その3 ――ボロボロのイギリス軍

 8 ワシントンの混乱、ウィーンの前進

 アメリカと英仏連合国は、アメリカのスペイン領キューバ奪取計画をめぐって対立したが、紛争にはいたらなかった。イギリスはアメリカを信用しておらず、クリミア戦争の調停を拒否した。

 1854年末から翌年にかけて、ウィーンにおいて会談が行われた。オーストリアのブオルは、ロシアに新たな4条件をのませて休戦を提案したが、イギリスはこれを拒否した。

 クラレンドン外相らは、軍事的勝利を得るまで妥協するつもりはなかった。

 

 

 9 「パム」の乱入

 1855年1月末、戦況の悪化とタイムズ紙報道によって、世論と閣内強硬派から支持を失ったアバディーンは辞職し、続いてパーマストンが組閣を命じられた。

 
 ニューカッスルに代わる新陸軍大臣パンミュア男爵Panmureはラグランとその幕僚たちに失敗の責任を転嫁し、首を挿げ替えようと試みた。

 フランスでも失敗を現場に押し付ける風潮があった。カンロベールは優柔不断のため英軍から「Robert Can't」と揶揄されるようになった。

 

 ウィーンでの会議は続いた。しかし、イギリスは軍事的勝利なしに妥協するつもりがなく、徒労に終わった。イギリス特使ラッセル卿は交渉失敗の生贄にされた。

 ニコライ1世は1855年2月、自軍の弱さと失敗で落ち込んだまま肺炎を患って死んだ。

 息子のアレクサンダー2世はロシアの威信を保つため戦争継続を決心した。

 

 10 春の膠着

・ナポレオン3世は直接クリミアに乗り込もうとしたが、これは遠征軍の指揮関係に影響するため、英外務省の尽力により取りやめになった。

・フランスは兵の増強がすむまで攻撃する意図がなく、英軍をいらだたせた。フランス軍が増えるにつれて、英軍は、自分たちが従属的立場になりつつあることを覚った。

・連合軍が要塞手前で停滞している間、ロシア側工兵の専門家、トッドレーベンは驚異的なレベルでセバストポリの防備を強化した。

 

クリミア戦争には、近代戦の要素が多く見られる……塹壕戦、偵察気球の試み、軍事・外交電報、野外電話、鉄道の利用、陸上車両、機雷。

 それでも、戦争の大部分はウェリントン時代の戦術と大差なかった。

 

 11 トッドレーベンの勝利

・攻撃が行われないまま英仏・トルコの連携は崩れ始めた。オマル・パシャは自分たちで別の港町を攻めようと意気込んでいた。

 

・英軍の大半は新兵に入れ替わっていた。フランスと異なり徴兵制は施行されていなかった。兵員不足を解消するため、各国で外人部隊を徴募した……ドイツ人、ポーランド人、スイス人など。

 イギリス外務省はアメリカ合衆国内でこっそりと兵員募集を行ったが、ニューヨーク警察に見つかり追い出され、外交問題になった。

 

・カンロベールは親しい連絡官ローズに心境を吐露した後、疲労と心痛のため司令官を辞任した。後任はより厳格なペリシエPelissierになった。

 

 

 12 春の航行、夏の成功

・海軍の動き……1855年5月中旬、アゾフ海入り口の港町ケルチKertchを連合黒海艦隊が襲撃し陥落させた。英仏軍の無差別砲撃、トルコ兵の虐殺、略奪、強姦が悪評を招き、ロシアや合衆国を激怒させた。

 バルト海では英仏艦隊(ダンダス指揮)がスベアヴォルグを砲撃し損害を与えた。しかし、クロンシュタットを攻撃することは、水際調査の結果、不可能に近いことがわかった。

・違法徴募事件で悪化していた英米関係はさらに激化し、イギリスは北大西洋の交通封鎖のため艦隊を派遣した。

 イギリスは、アメリカがロシア、アイルランド共和派を支援していると非難した。

 

 13 塹壕戦:要塞の虐殺

 1855年6月以降、堅固なセバストポリ要塞を攻める過程で、多大な人命損失が発生した。

・マメロン砦Mamelonの戦い:フランス軍に5400名以上の死者

・大レダンThe Great Redanの戦い(マラコフ砦Malakovの戦いと同時):イギリス軍1500人、フランス軍3500人の死者、意思疎通失敗によりロシアの砲弾の嵐を無防備に突撃

・6月末、疲労と疾病でラグランは死亡した。かれ自身はウェリントン時代の戦術に忠実な、優れた、人望のある司令官だった。しかしイギリス軍の構造的欠陥の責任をすべてかぶせられ、汚名を被って死んだ。

 

 14 セバストポリ陥落

・ラグランの後任シンプソンSimpsonは重責に耐えられず、悩んだ末コドリントンが指名された。当時、最良の指揮官だったコリン・キャンベルは、生まれが上流でないため全く顧慮されなかった。

・英軍は、工作隊として民間技師と鉄道技師Navvyを雇った。しかし高給取りのわりに意欲がなかったので兵隊を怒らせた。

・戦況が硬直し、双方は疲弊していた。世論は、また次の冬を越すのかと失望した。

・9月8日、連合軍の突撃によりセバストポリは陥落し、ゴルチャコフは撤退した。ロシア軍1万3千人、連合軍1万人が死んだ。要塞には死者や重傷者が放置されていた。

 

 15 忘れられた戦い:カルスKarsとエルズルムErzerum

 小アジアでは、北コーカサスにおけるシャミールの反乱やクルド人の反乱が発生し、オスマン帝国は対応に追われた。

 宿敵クルド人との戦争は特に凄惨であり、捕虜は鼻や耳をそぎ落とされ、手を切断され、串刺しや皮はぎの刑に処された。

 

 16 二度目の冬

 セバストポリ陥落後の膠着状態について。

 

・ロシアはシンフェロポリに後退したものの依然としてクリミア半島を保持できていた。アレクサンダー2世は継続を望んでいた。

・ナポレオン3世は、フランス軍ワーテルロー以来の停滞を打破し、再びヨーロッパの大国に復帰することができたと満足した。世論も、勝利に湧いた。そして、これ以上の犠牲と消耗は望んでいなかった。

・イギリスは目立った功績がないため、まだ和平の意志はなかった。前年と違い冬用装備も充実していた。

・遠征軍高官たちは不倫や恋愛に励んだ。


  ***
 3部

 主に講和をめぐる各国の動きを説明する。重要なのだが、若干退屈である。

 

 1 和平交渉者たちPeace Feelers

 外交交渉が停滞している間に、フランス軍は疫病で最大の死者(数万人)を出した。

 

 パリ講和会議の結果、両軍は撤退を開始した。

 兵が完全撤退したのは1956年7月だった。

 

 3 パリの平和

 パリ条約の内容は、イギリスには不満のあるものだったが、これを覆すことはできなかった。

 

オスマン帝国の主権確認

・英仏の歩み寄り

・1875年ボスニア反乱に伴う露土戦争後の、ロシアの黒海権益回復

 

 4 新世界秩序

 クリミア戦争後の欧州諸国の情勢について。

 

ペルシア戦争(合衆国の支援するペルシアがアフガン国境のヘラートHeratに進出し、これをイギリス軍が阻止)

英米対立と、米ロの蜜月……合衆国はロシアからアラスカを買い取った。英米は、違法徴募問題で燻っていた。

・インド反乱……貿易などを通じた間接支配から、直接統治への移行期

・ナポレオン3世の拡張政策

ビスマルクプロイセン勃興……デンマーク戦争、普墺戦争普仏戦争

・ロシアの改革(農奴制廃止など)とその行き詰まり

・合衆国の内戦……大規模電気通信、潜水艦、鉄道の本格利用

・イギリス人顧問ストラトフォード卿はオスマン宮廷における影響力を取り戻し、近代改革を進めるよう促した。しかしスルタンや宰相はあまり聞き入れず、停滞したまま列強から取り残されていった

 

 5 クリミア戦争の教訓

 クリミア戦争は、その後起こったインド反乱や南北戦争普仏戦争などによってかすんでしまった。

 しかし、その存在は各国の文化に残った……テニソンの詩、「軽騎兵の突撃」、トルストイの小説その他。

 多くの従軍者や記者が回想録を出版した。

 イギリス軍は緒戦の失敗を受けて、19世紀後半に軍事改革を実施した。

 

・軍政機関の再編により、参謀本部は純粋に作戦のみを統括するようになった。

・エンフィールド銃への更新、軍服の更新

 クリミア戦争は近代戦と古典的なナポレオン時代の戦争、双方の特徴を備えたヤヌスのようなものである。

 

 6 終章Epilogue

 クリミア戦争と、1914年8月の開戦とが対比される。

 両戦争は、いずれも東方問題が原因で発生した。どちらも、「ヨーロッパの病人」オスマン帝国の没落に伴う政治的空白をめぐって引き起こされた。

 イギリスはかつてコンスタンティノープルの権益を守るために、ロシアと戦ったが、1914年には、これをロシアに引き渡すという約束の下、トルコに宣戦布告したのだった。

 イギリス軍は、クリミア戦争時に比べ、非常に優秀な軍隊として戦った。

 

 なお、20世紀最初の大戦争バルカン半島から始まり、その世紀末にバルカン半島自身の崩壊(ユーゴスラヴィア紛争)で終わったのは皮肉である。

 EUの誕生は、19世紀の外交官や君主たちには信じがたいものだろうと著者はコメントする。

 しかし、本書刊行時の予想とは違って、欧州統合の基盤は決して盤石ではないことが判明した。

 

Crimea: The Great Crimean War, 1854-1856 (English Edition)

Crimea: The Great Crimean War, 1854-1856 (English Edition)