うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『日本の社会保障』広井良典

 社会保障を考える上で、年金、医療費といった個別に分けて論じるのではなく、そもそも国家が負担すべき国民のリスクとは何かを検討し、その後、あるべき社会保障の姿を検討する。

 制度自体が複雑でわかりにくいため、この本も自分のような素人には読みにくい箇所がある。

 社会保障の制度を検討するには、その国の経済について知らなければならないことを痛感した。

 

 ◆感想

 どこまでを国がカバーするのか、また、公平とは何かについては、国や倫理に対する見方によってとらえ方が変わる。これらは別個に本を読んで考える必要がある。

 家族構造は産業にあわせて変わるものであり、「介護と育児は大家族制に回帰すれば解決する」と号令をかけてどうなるものでもない。

 

  ***

 1

 社会保障制度は、経済社会システムの変化や、家族構造、就業構造の変化に対応するかたちで発展してきた。

 

・「福祉国家」の概念は、第2次大戦後に西欧を中心に発展したシステムをさす。

社会保障は、リスク分散を原理とする「社会保険」と、所得再分配を原理とする「福祉(公的扶助)」とに分けられる。

 社会保険は民間保険にその起源があり、福祉はエリザベス救貧法等が発祥である。

 福祉国家観はヨーロッパにおいて80年代まで続き、やがて経済の不調にあわせて危機が叫ばれるようになった。

 

・現在、社会保障は3つのモデルに分けられる。

 (1)普遍主義モデル(北欧)……租税中心、全住民対象、平等志向

 (2)社会保険モデル(独仏)……社会保険中心、被雇用者ベース、所得比例給付

 (3)市場重視モデル(米)……民間保険中心、最低限の国家介入、自立自助とボランティア

 

 各モデルでは、公助(公共性)、共助(共同体または連帯)、自助(自立した個人)が社会保障の軸となる。

 

社会保障を考える上では、規模、内容、財源を検討することが重要である。

・福祉に経済効果があること、また、環境問題やグローバル化を視野にいれることも、忘れてはならない。

 

 2

 日本は後発国家として出発し、また少子高齢化にいずれ直面する。

 日本の社会保障制度の特徴は本書によれば以下のとおり。

 

・ドイツ型社会保険システムからイギリス的普遍主義へ

医療保険の整備の後、年金制度整備、年金制度の肥大へ

社会保険の保険者が国である

・非サラリーマン・グループ(第1次産業、自営業)を医療保険を中心として取り込んだ。

 

 日本の社会保障システムは、途上国や新興国がとるべき方針に合致していた。しかし、現在は情勢が変わり、問題点が浮上した。

・医療……途上国型から成熟経済型医療構造へ

・年金……「貯蓄/保険」機能と「所得再分配」機能の峻別と公的部門の見直し

・福祉……高齢者介護問題への対応と「対人社会サービス」の展開

 

 ――……現行のわが国の年金制度では、所得に応じて保険料を払いそれに応じて給付を受けるという「貯蓄/保険」的機能と、「所得再分配」機能(世代間・世代内)とがきわめて複雑なかたちで一体化していると言える。

 現在の日本の社会保障は、エスピン・アンデルセンのいう「大陸型ヨーロッパ福祉国家のモデル」、すなわち「高度に発展した社会保険(とりわけ年金)と、発達不良の社会サービスという組み合わせ」にあてはまる。

 

 高齢者介護と医療問題は分けて考えるべきである。

 

 3

 社会保障を考える上で、経済学的な視点、公平性・共同体に関する視点、グローバル化に関する視点をとりいれることの重要性を述べる。

 

・効率性、公平性の観点から社会保障システムを考える。不健康な者だけが健保に入り財政悪化に陥らぬよう、また、民間会社が不健康な者を排除しないよう、保険は強制加入が効率的である。

・国家の機能……市場の失敗への対処(純粋公共財(防衛・秩序・財産保護・公衆衛生等)、教育、環境保全、独占規制、保険)、公平性の改善(貧困層保護、社会保障供給(再分配的年金))

 

 著者の主張は、「医療や福祉の分野についてはできる限り公的な保障を維持し、年金については大幅なスリム化ないし民営化を図る」というものである。

 

・公平性について、ロールズを議論のきっかけとして検討する。

多国籍企業やEU等、国民国家の概念だけではカバーできない経済事象が生まれている。社会保障設計については、このような要素も考慮しなければならない。

 

 4

 ――社会保障という制度は、経済の進化に伴って、(自然発生的な)共同体――家族を含む――が次々と解体、「外部化」されていくことに対応して、それを新たなかたちで「社会化」していくシステムである。

 ――社会保障の今後のあり方を考える場合、「公私の役割分担のあり方」ということが基本的な視点であり、そうした点から考えると、いったん純化した形で社会保障の「機能」を考え、それらの機能に応じて公私の分担を整理していくのが妥当である。

 

 今後の社会における社会保障は、「市場」をベースとし、それを補完する制度として「個人」を基本的な単位とするものであるべきだという。

 

 議論の際は、社会保障全体の設計を考えたうえで、公私の役割を分担していく作業が不可欠である。

 今後の社会保障モデルとしては4つある。

 

A 全分野重点型

B 医療・福祉重点型

C 年金重点型

D 市場(民間)型

 

 他の先進国、つまり低成長国、定常国では、制度改革に関して次の共通点が見られる。

・年金:給付範囲の縮小と、私的年金への移管

・医療:公的範囲は維持し、市場原理・競争原理導入による効率化

・福祉:高齢者ケアを中心とする医療から福祉、施設から在宅へのシフト

 

日本の社会保障 (岩波新書)

日本の社会保障 (岩波新書)

 

 

『検証アメリカ500年の物語』猿谷要 その2

 3 第1次大戦終結(1918年)まで

・修正憲法により黒人の自由、市民権、選挙権が認められたが、南部各州では黒人差別の合法化がすすめられた。

・先住民の追放、虐殺も激化し、1871年の法律により先住民は居留地Reservationへ追い込まれた。

・1876年 リトルビッグホーンの戦い

・ワースト大統領ユリシーズ・グラント(1869~77)……「金ぴか時代」、汚職、金儲け、癒着

・傑物たち……鉄鋼王アンドリュー・カーネギー、石油王ジョン・ロックフェラー、トマス・エディソン

・1892年結成の人民党Populist Partyは、第三党として歴史に名をとどめている。

・19世紀末以降の新移民……東欧、南欧、スラヴ系・ラテン系、カトリックギリシア正教ユダヤ教、中国系・日系

帝国主義の道……

 1898年の米西戦争により、セオドア・ルーズヴェルトはフィリピン、プエルトリコ、グアムを領有した。

・セオドア・ルーズヴェルトによる改革の時代

 

 ――いずれにしてもこの時代に、それまで「人民を治めるための、政界のボスによる、実業家のための政治」とまでいわれた独占資本の弊害が、ある程度まで軽減されたことは間違いない。

 

・第1次世界大戦……ウィルソンは当初中立を宣言したが、ドイツのツィンメルマン文書や無制限潜水艦作戦を受けて参戦を決定した。実際の理由は、合衆国企業や銀行の権益保護だったといわれる。

国際連盟……合衆国は参加を否決した。

 

  ***

 4 日本への原爆投下(1945年)まで

・1920年、大統領に当選したウォーレン・ハーディングは、自分の仲間(オハイオ・ギャング)を優遇し縁故政治を進めたためグラントと並び史上最低の大統領とされる。

・クーリッジ大統領は「何もしないことを芸術の域にまで高めた」。

・ハーバート・フーヴァーの代

・1920年代……ジャズ・エイジ

 1919年 禁酒法発効、1932年にFDRにより廃止

 1920年 女性参政権成立

 ハーレム・ルネサンス、黒人文化の興隆、ハリウッド

・移民の排斥……中国系、1924年排日移民法

・1929年10月24日 暗黒の木曜日

 1932年 FDRの就任

・三選された大統領(戦後、憲法修正により三選は禁止)、ニューディール、エリノア夫人

 

 1937年「隔離演説」においてファシズムを警告したが、戦争介入を招くとして議会や世論から非難された。

 

真珠湾攻撃の不意打ちは、在米大使館のミスによるものだったと戦後、外務省は主張している。

 

 ――これほど大きなミスを犯した当時の大使館関係者が、その後まったく責任を問われないばかりか、逆に出世しているのを見て、真珠湾の奇襲は国家ぐるみの陰謀だったという説がアメリカのなかに生まれてくるのである。

 

  ***

 5 ニクソン大統領訪中・訪ソ(1972年)まで

トゥルーマン政権時代……非米活動調査委員会、マッカーシズム

・黒人運動

 1955年 アラバマ州モントゴメリーのバスボイコット運動と、キング牧師

 1957年 リトルロックでの白人高校への黒人入学事件

・雪解け:フルシチョフによる外交

 フルシチョフは大規模な軍縮を提言したが信用されなかった。

 

 ――これはソ連特有の宣伝効果を狙っていたばかりではなく、かなりの程度フルシチョフの隠された本心であったことが、ずっと後になって判明する。しかも彼のこの軍縮指向が、64年の突然の失脚と深く結びついていたことも、いまでは明らかになっているのだ。

 

 1960年、アイゼンハワーは告別演説において、軍産複合体の危険性を指摘した。

・続く民主党ケネディ政権は、社会にリベラルと改革の空気を呼び起こした。

 1962年 キューバ危機

 1963年11月 ケネディ暗殺

・軍部の力は拡大し、大統領でさえも容易に抑えることができなくなっていた。

 

 1964年 公民権法発動

 1965年 ジョンソンの北爆開始

       ハーレム暴動、ワッツ暴動

 1968年 キング牧師暗殺

 FSM(フリー・スピーチ・ムーブメント)

 

ニクソンは1968年大統領に就任した。当初ベトナム戦争から抜け出せず、さらにカンボジアにも侵攻した。

 1972年、訪中により国交回復し、さらにソ連との軍縮交渉を成立させた(SALT1)。

 

  ***

 6 米ソ首脳による冷戦終結宣言(1989年)まで

 1973年 パリ休戦協定

       オイルショック中東戦争への抗議)

 石油危機は小型車需要を生み、これが日本車輸出の拡大につながった。

 70年代を通じて、マイノリティ……黒人、先住民、アジア系、女性らの権利運動が盛んになった。

 1974年、ウォーターゲート事件によって、ニクソンは辞任した。

 

 ――アメリカ人は無能だった大統領よりも、ウソをついた大統領の方を憎む。大統領の言動が虚偽に満ちていたというのでは、国家の威信を保てるはずがないからである。

 

 フォード大統領の後、76年に民主党カーターが就任した。

 カーターは人権外交や各種の行政改革に取り組んだが、在任中はスリーマイル原発事故(79年)やイラン革命に伴うテヘラン人質事件が発生した。またソ連軍縮交渉をあざ笑うかのようにアフガンを侵攻したため、カーターの支持率は急落した。

 

 1980年 レーガン就任

 かれは時代の要請に適合していた。それは、「強いアメリカ」の再現と、「伝統的なアメリカの価値観」再構築である。

レーガノミクス……大型減税と「小さな政府」(財政支出削減)

 1983年 SDI(スターウォーズ計画)

 中南米への軍事介入、リビア空爆失敗、イラン・コントラ事件

・1985年 ゴルバチョフ総書記就任

・1986年には、債権国から債務国へ転落した。

 1987年 暗黒の木曜日

 

 

  ***

 7 イラク戦争まで

・2002年 人口の多い州

 カリフォルニア、テキサス、ニューヨーク、フロリダ、イリノイ、ペンシルヴァニア、オハイオ、ミシガン、ニュージャージージョージア

・貧しい州

 ミシシッピアーカンソーウェストバージニアニューメキシコ、ユタ、モンタナ、アイダホ、サウスカロライナルイジアナオクラホマ

 

 ――ペンシルヴァニア大学のポール・ファッセル教授によれば最上層に位置する人たちは世間から見えない層であり、最下層の底辺もまた世間からは見えない層であるという。

 

湾岸戦争

 1990年8月 イラククウェート侵攻

 1991年1月 砂漠の嵐作戦

 

 教訓……軍による報道規制が国民の目をふさいだ。イラン・イラク戦争以来、アメリカは一貫してイラクを援助してきたため、イラクアメリカ製のハイテク兵器で戦った。

 1992年11月、大統領選において、ブッシュはクリントンに敗北した。

 クリントンは中道リベラル政策を進め、特に経済政策に力を入れた。

 

 ――わずか4年前の88年の大統領選挙では……ブッシュ陣営はまるでリベラルであることが犯罪でもあるかのようなムードを創り出すことに成功したのだった。

 

 自国の戦争に反対する大統領は珍しく、クリントンベトナム戦争に反対した点で稀有な存在だった。

 湾岸戦争前後の軍事介入について……ナショナリズム共産主義勢力の見分けがつかず、かつて自由と平等を目指した国が、独裁政権を支援する立場に回った。

 クリントンは徐々に介入主義から手を引いた。

 93年 中東和平合意

 

 2000年のW・ブッシュ当選と、2001年の同時多発テロは、アメリカ社会を完全に変えた。

 一国行動主義がすすめられ、アメリカはますます嫌われ者になっていった。

 

 ――今や巨大な軍事大国と化したアメリカにも、その絶頂期が永遠に続くという証拠がまったく見当たらない。……その大きな兆しは、かつてあれほど愛され好かれていたこの国が、今では嫌われ恐れられる国になろうとしていることである。

 

 

検証アメリカ500年の物語 (平凡社ライブラリー―offシリーズ)

検証アメリカ500年の物語 (平凡社ライブラリー―offシリーズ)

 

 

『検証アメリカ500年の物語』猿谷要 その1

 大航海時代から現在までのアメリカの歴史をたどる。アメリカ合衆国の大きな流れを理解するために役に立つ。

 おそらく合衆国では常識であろう事実(建国の経緯など)を覚えることも重要である。

 

 合衆国は自由や平等、民主主義といった理念に基づいて建国された。しかし、かれらが敵や劣等分子とみなす対象――先住民、黒人、マイノリティ、中南米共産主義勢力、ムスリム――に対する行動は冷酷である。

 南アフリカアパルトヘイトイスラエルを連想させる、人間を取り扱う際の二重基準を認識することが重要であると感じる。

 

  ***
 1 有史前から初代大統領就任(1789年)まで

 アメリカ大陸は、先住民黄色人種、白人、アフリカの黒人が出合い、異質の文化が融合してできた文明を持つ。

・北米東南部の先住民……マウンドmoundと呼ばれる祭祀場

・新大陸への進出の経緯……オスマン帝国によるイスタンブール占領、イベリアにおけるレコンキスタ(国土回復運動)、科学技術の進歩

・15世紀、ポルトガルエンリケ航海王子による航路開拓振興

・1492年、スペインのコロンブスインディオ接触し、好意的な印象を持ったが、それは主従関係に基づく感情だった。

 その後、ピサロ、コルテスらが先住民王朝を征服した。

 

 ――しかし北米には、中南米のように強大な先住民の帝国が築かれてはいなかった。そしてスペインのように征服を目的として軍隊が派遣されてきたわけではなかった。ごく少数の植民者たちが、そこに自分たちが定住する植民地を築こうとして入ってきたのである。

 

・「黒い象牙奴隷貿易……アフリカ西海岸、ヨーロッパ、北米

・労働力確保のため、1641年マサチューセッツを皮切りに、奴隷制の法制化が始まった。

・オランダ領ニューアムステルダムは、オランダ本国が英国との戦争に敗れたため英領ニューヨークとなた。

・スペインは北米西南部、太平洋沿いにミッション(砦・伝道所・交易所をかねたもの)を建設した……サンフランシスコ、ロスアンゼルスなど。

・フランス……ケベックミシシッピ川流域(ルイジアナ

・イギリスの13植民地……ヴァージニア、ニューハンプシャーマサチューセッツロードアイランドコネティカット、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴァニア、デラウェア、メリーランド、ノースカロライナサウスカロライナジョージア

・1754年から始まったフレンチ=インディアン戦争の結果、イギリスはフランス植民地を取得した。しかし、それは先住民の頭越しに行われた。

・イギリス各植民地は独立していた。北部は造船業・漁業・貿易業、中部は農業、南部はプランテーションが主流となった。

・17世紀からの大学設立……ハーヴァード、イェール、プリンストン、コロンビア、ブラウン、ラトガーズ

・現地の議員は、本国から派遣される議員よりも優位にあった。また、北部や西部では直接民主政のタウンミーティングが行われた。

・1763年以降、イギリスは植民地に対し統制を強める9つの条例を課した(印紙条例や駐屯条例など)。

・「代表なくして課税なし」、「自由か死か」

・1770年 ボストン虐殺事件

 1773年 ボストン茶会事件Boston Tea Party

・独立の理由……自治、経済的独立

・1776年出版されたトマス・ペイン『コモン・センス』は、独立革命派(愛国派)の支持向上に貢献した。

・1774年 大陸会議:ワシントンを植民地軍司令官とする

・独立宣言の起草……ベンジャミン・フランクリンジョン・アダムズ、トマス・ジェファソン(奴隷所有者)ら

 

 ――すべての人間は生まれながらにして平等であり、創造主によって一定の奪いがたい権利を与えられ、そのなかには生命、自由、および幸福の追求が含まれていることを、われわれは自明の真理であると信じる。

 

・合衆国では独立戦争を革命戦争Revolutionary Warと呼ぶ。

・1781年、イギリスが敗退し、南部を中心に王党派は追放された。

 

・建国当初の苦闘

 1785年 公有地法令:土地取得・測量のための法整備

 1786年 北西部法令:成人男子5千人以上で準州(Territory)、自由市民6万人以上で州(State)へ昇格

 オハイオ川以北では、奴隷制度を認めないとの取り決め

 1787年 合衆国憲法草案:「連邦主義、三権分立、民主主義」……三権分立(行政の肥大化を警戒)、上院(各州2名)と下院(人口比)

 下院議員の人口換算……奴隷は5分の3としてカウント

 

・草案をめぐる二大党派

 フェデラリスト……草案、中央集権に賛成(ワシントン、フランクリン、ハミルトン)

 リパブリカン……草案に反対、地方自治主義(トマス・ジェファソン)

 

  ***

 2 南北戦争終結(1865年)まで

・主流としてのWASP(白人・アングロサクソンプロテスタント)の成立

・大統領官邸は1812年の戦争(米英)で焼失したため、ホワイトハウスとして再建された。

・イギリスは機械工業により経済発展を遂げたが、海外流出を禁止していた機械が合衆国に密輸され、工業が始まった。

 綿工業、蒸気船、蒸気機関車など

市場経済の勃興とともに、19世紀前半には景気循環が定期的に社会を恐慌に陥れた。

・西部に向けての開拓と、先住民に対する征服・追放・虐殺が続けられた。

・1803年 3代大統領ジェファソンは、モンローを派遣しフランスからルイジアナを購入した。

・1834年 モンロー宣言 新大陸と欧州の相互不介入

・7代大統領 アンドリュー・ジャクソンは、民主主義を推進する一方、先住民を強制移住させた。

・テキサス取得……1836年、スペイン領テキサスにおいて、アメリカ政府の支援を受けたサム・ヒューストンが反乱を起こした。アラモ砦の全滅などを受け、反乱軍はメキシコ軍を破りテキサス共和国を建国(Lone Star)、1845年に合衆国が併合した。

 

 ――……自国の国民が隣国に入って反乱を起こし、政府がひそかにその反乱を応援して独立させ、何年か後に併合するという経過は、あまりフェアとはいえないだろう。やがてカリフォルニアでも、それから太平洋上のハワイでも、アメリカは同じような方法をとろうとするのである。

 

・1820年 ミズーリ協定 北緯36度30分以北では奴隷制度を認めない

・1848年 カリフォルニアへのゴールドラッシュ

・1848年 エリザベス・スタントンの女性参政権運動

・南北対立……北部は資本主義社会、南部は奴隷制度を基礎とする綿花王国、西部は自営開拓農民

・「アボリショニスト」、クエーカー教徒による奴隷制廃止運動、『アンクル・トムの小屋』

・北部:保護貿易国立銀行、中央集権、共和党

 南部:自由貿易、州立銀行、各州自治民主党

・1860年 リンカン大統領就任とともに、南部諸州が連邦を脱退し、CSA(南部同盟政府The Confederation States of America)を樹立(大統領ジェファソン・デーヴィス)

南北戦争 1861.4~1865.4

 戦死者60万人

 サムター要塞の攻撃から開始

・長期化の理由……南部は軍人比率が高く、普段から馬を乗りこなす住民が多かった。南部は優秀な将校を多く抱えていた。

  ***

 [つづく]

 

検証アメリカ500年の物語 (平凡社ライブラリー―offシリーズ)

検証アメリカ500年の物語 (平凡社ライブラリー―offシリーズ)

 

 

『CIAと戦後日本』有馬哲夫

 アメリカの国立公文書館史料を基に、アメリカが日本の戦後体制にいかに影響を与えてきたかを検討する。

 

 ◆メモ

 占領から一貫してアメリカが日本政治に影響を与えてきたことを検討する本。

 日本の有力者たちは、金や自己利益のためにCIAのスパイ、工作員になった、というのではない。それぞれ、再軍備・反共を目指すアメリカと、再軍備憲法改正・反共を目指す日本人側の思惑があり、協力関係がつくられたようである。

 ただし、事実と憶測の部分は明確に区分けしなければならない。陰謀論でよく使われるような組織や用語が散見されるため、特に注意を要する。

 

  ***

 

 ――アメリカでは国民の税金を使う国家機関は、あらゆる記録を保存することになっている。納税者に対する説明責任を果たすためだ。そして、納税者にとっては、権力を監視するために必要不可欠なものだからだ。

 

 本書において日本に介入するジャパン・ロビーは、正式にはアメリカ対日協議会といい、次のようなメンバーからなる。

・キャッスル元駐日米大使

・ジョゼフ・グルー元駐日米大使

ドゥーマン元駐日米大使館参事

・フーヴァー元大統領

ジョン・ダレス国務長官

・ウィリアム・ノウランド上院議員

・アレグザンダー・スミス上院議員

・カウフマン弁護士

・コンプトン・パッケナム

・ハリー・カーン

・『ニューズウィーク』記者

・ロバート・アイケルバーガー陸軍中将

・ウィリアム・ヴィシー・プラット海軍大将

 

 1

 CIA文書とは2002年から2005年にかけてCIAが放出したファイルで、CIAや各機関の公文書を、人物やテーマごとに編纂したものである。

・CIA文書に載っているということは、CIAが戦犯として取り調べたか、容疑者または協力者として関心を持ち続けたことを示す。

・CIA文書には、アメリカの情報機関や、アメリカの国益に関する事項は一切公開されない。

 

 ――岸ファイルには、……残っているはずのほかの文書や記録を一切公開していないのは、彼が非公然にアメリカのために果たした役割が極めて大きく、かつ、公開した場合、現代の日本の政治に与える影響が大きいからだろう。

 

 ――たとえば岸信介は、日本の一部メディアからCIAのエージェントと決めつけられているが、事実は、そんな単純なものではない。アメリカ側が彼を支援したのは、彼が折り紙つきの反共主義者で、再軍備の必要性を認め、そのために憲法を改正することに熱心で、これらを実現する力を持っていたからだ。

 

・実際の協力者は大蔵省、外務省の高級官僚が多く、また情報提供者はマスコミ幹部に多い。

 

 2

 戦犯として懲役刑に服した後、改進党総裁となった重光葵を中心に、CIA文書からアメリカの対日政策を分析する。

 ジャパン・ロビーはアメリカにいる対日政策圧力団体であり、共和党と結びつきの強い、元政治家や外交官、ジャーナリストからなる。

 

 ――かれらは吉田から佐藤栄作まで(鳩山と石橋は除く)の歴代総理大臣キングメーカー的存在となった。

 

吉田茂再軍備憲法改正に消極的であるため、ジャパン・ロビーの気に入らなかった。

鳩山一郎再軍備憲法改正に熱心だったが、児玉与志夫と関係があり、ダーティな政治家として嫌われていた。同じ主張を唱える重光を、アメリカ側は次の総理大臣にしようと考えた。

・重光は児玉与志夫の恩人であり、鳩山と同じように資金提供を受けた。また、CIAからは軍部の走狗とみられており、軍関係者が担ぎ出すのに都合のよい人物だと評価されていた。

・重光を含む当時の大物政治家たちは、保全経済会疑獄に関わっていた。

 

 ――つまり、CIAと国務省は、重光や鳩山ばかりか、同じく保全経済会疑獄で名前が出ていた池田や佐藤などに関しても、彼らの政治生命に関わる情報を握っていたということだ。……これを彼らの協力者である日本のメディア関係者に流せば、いつでも彼らを失脚させることができる。これによって日本の政治をコントロールできるといっても過言ではない。日本の大物政治家が態度を180度変えることがよくあるが、それはこのような弱みに付け込まれたせいかもしれない。

 

 以下、保守合同や日ソ国交回復交渉に対するアメリカの介入、無能で傲慢な重光への非難が続く。

 

 3

 マッカーサー率いるGHQの政策に対して、ジャパン・ロビーは逆コース、再軍備の方針をもって介入した。

 野村吉三郎は太平洋戦争開戦時の対米交渉大使で、元海軍軍人だが、特にジャパン・ロビーに知己が多かった。ロビーは、野村を通じて日本の情報を入手し、また人脈を広げていった。

 野村は米側から、人間的に信頼されており、本人も海軍再建という悲願のためにアメリカの支援を仰いだ。再軍備に消極的な吉田茂を抑え込み、海上自衛隊の創設に尽力した。

 宇垣機関:CIA文書に登場する。宇垣一成以下野村吉三郎、辻政信らによるインテリジェンス機関で、アメリカへの情報協力を行った。

 

 4

 日本テレビ放送網建設とCIAの関係について。

 正力松太郎日本テレビ社長となったが、日本と朝鮮を覆う放送通信網建設のために、野村を通じてアメリカから援助を得ようとした。テレビ放送網は、レーダー情報、航空管制にも転用できるため、実際には軍事通信網だった。このため、再軍備を方針とする野村も賛同した。

 

 ――……日本再建委員会が発足した。これは憲法を改正し、軍備を整えることによって、自立自衛の日本を再建するというものだが、メンバーには岸信介重光葵渋沢敬三などの大物政治家や財界人に混じって野村と正力の名前もあった。

 

 ――ジャパン・ロビーの多くは、大企業と強い関係があり、かつ共和党支持者だった。日本に戦争責任を取らせるとか、民主化するということよりも、共産主義に対する防波堤とし、アメリカ企業のためのマーケットとすることに心を砕いていた。

 

 この作戦はPODALTONと名付けられた。しかし、正力=日本テレビの利己心と政治的野心があらわになると、野村とアメリカは、吉田茂電電公社側についた。

 

 ――アメリカ側と野村たちにとって大切なことは、このマイクロ波通信網を建設するのが日本テレビ電電公社か、借款をだすかださないか、ではなかった。一刻も早く、このマイクロ波通信網を建設することだったのだ。

 

 5

 キャノン機関とは、G2直轄の工作機関であり、多数の日本人工作員を従え情報収集と反共工作活動を行った。

 キャノン機関の指揮官であるジャック・キャノンと吉田茂緒方竹虎が、総理直轄の情報機関である内閣官房調査室(いまの内閣情報調査室)設立に関わっていたという話について。

 情報機関は、国家戦略の中枢頭脳の役割を果たす。戦争指導の上でも、情報機関は不可欠とされる。

 吉田は、内閣情報局総裁だった緒方を、新たな情報機関の長に据えようとしたが、マスコミ、社会党から批判された。

 やがて、緒方竹虎保守合同のためにCIAに情報を提供し、見返りに資金援助を受けようと運動した。

 ただし、保守合同の際にCIAが資金援助をしたという客観的な証拠は見つかっていない。

 

 

 

CIAと戦後日本 (平凡社新書)

CIAと戦後日本 (平凡社新書)