うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『従軍慰安婦』吉見義明

 ◆所見

 吉見義明は『毒ガス戦と日本軍』の著者でもある。

 長年問題となっていた朝日新聞従軍慰安婦捏造記事は、本書では資料として使われていない。

 政府と軍が支えた強制システムの証拠は豊富に残されており、業者の汚れ仕事に見て見ぬ振りをしつつ、慰安所を運営していた点が非難を受けている。

 今後の日本の価値観としては、「慰安婦記事は捏造であり、また一部の証言も虚偽だった、したがって従軍慰安婦問題は捏造・虚偽だった」という方向に進んでいくだろうが、わたしは絶対に同調することはないだろう。

 軍隊組織は建前を巧妙に使い、表面をきれいにし、汚れた実態を隠すことに長けている。

 反女性意識、人種差別は、今も変わらぬ日本の伝統的価値観であると再認識した。

 

  ***

 1992年の河野洋平内閣官房長官談話では、「政府は軍や官憲の関与と慰安婦の徴集・使役での強制を認め、問題の本質が重大な人権侵害であったことを承認」した。

 ただし、政府は軍・官憲が主体となったとは認めておらず、また朝鮮人以外の慰安婦についても言及していない。

 国民の間では、上述の政府認識についても共有されていない。

 

 1

 記録に残っている最初の慰安所は1931年、上海事変に併せて海軍が設置した。本格化したのは1937年の南京攻略前後からで、現地部隊の強姦が治安維持上問題化しているのを受けて、軍の指示により慰安所が設置されるようになった。

 やがて、揚子江流域だけでなく華北、東北にも広まった。

 慰安所設置は、陸軍省の統制の下、現地司令部が指揮し実施した。

 設置の理由として陸軍省文書に残されているのは「軍人の士気の振興、軍紀の維持、略奪・強姦・放火・捕虜虐殺などの犯罪の予防、性病の予防」である。

 

 ――事変勃発以来の実情に徴するに、赫々たる武勲の反面に掠奪、強姦、放火、俘虜惨殺等、皇軍たるの本質に反する幾多の犯行を生じ、為に聖戦に対する内外の嫌悪反感を招来し、聖戦目的の達成を困難ならしめあるは遺憾とするところなり。

 

 慰安所運営に係る関係省庁……台湾・朝鮮総督府内務省

 当時第11軍司令官だった岡村寧次の証言。

 

 ――第6師団の如きは、慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である。

 

 2

 軍を主体とする慰安所運営は、太平洋戦争の開始とともに東南アジアにも拡大した。それでも強姦等はおさまらず、行政文書でも問題として記録が残っている。

 慰安婦の民族内訳は、半分が朝鮮人、3割が中国人、残りが日本人や、現地人や植民地白人だった。

 

 3

 女性の徴集についての資料は、軍の行政文書では断片的にしか残っていないため、聴き取り調査が大きなウェイトを占めている。

 売春業の募集として集められたのはごくわずかであり、ほとんどは、業者による詐欺、誘拐等だったという。一部、完全な拉致の例もあった。

 義務教育のない朝鮮人女性が就職するのは難しく、看護師、清掃夫、給仕等、職につけると業者に騙されて中国や東南アジアに渡り、慰安婦にされたケースが多い。

 他、台湾人、中国人、東南アジア人も同様に徴集された。

 フィリピン、インドネシア反日ゲリラが活発であり、現地人は軍から敵対視されていた。このため、慰安婦徴集も暴力的になることが多かった。

 占領地では、軍が女性を要求し、村の代表が娘を差し出す事例が見られた。

 

 4

 慰安婦たちは軍の規則により厳重に管理された。運営は業者と部隊が行い、多くは劣悪な環境で監視されつつ性欲処理をさせられた。

 日本国内では規制されている未成年の使役禁止や、外出・通信・面接・廃業の自由も、占領地では認められなかった。

 

 5

 国際法上での従軍慰安婦問題の位置付けと、オランダ人慰安婦裁判について。

 慰安婦の大多数は、植民地人、占領地のアジア系女性である。これは、国際法による追及を逃れるための政府の方針に基づく。

 

・日本人を連行した場合、兵士の士気が下がり、問題化する。

・占領地から慰安婦を強制徴集した場合、国際法違反となる。特にヨーロッパ系は、追及されるリスクが大きい。

・植民地においては、未成年使役の規制は適用されていなかった。

 

 ――裁判であきらかになった重要な事実のひとつは、日本軍司令部が、売春のための強制徴集は戦争犯罪であるという国際法をよく承知していたということである。それは設置する際の注意、また事件が発覚すると軍慰安所を閉鎖したことから、よくうかがわれよう。

 

 日本は51年サンフランシスコ平和条約で、東京裁判とBC級戦犯裁判を受諾している。よって、インドネシアスマラン慰安所事件(スマラン慰安所事件 - Wikipedia)の裁判も認めており、強姦、強制売春のための婦女子連行、売春強要をしたという認識も受け入れている。

 

 6

 終戦後、占領軍の性犯罪対策のため、内務省は慰安施設の設置通達を出した。「特殊慰安施設協会Recreation and Amusement Association」が東京で設置された。慰安所設置には、笹川良一ら右翼、売春業者も関与した。

 米英軍による性犯罪も発生しており、また軍中央からの統制からは外れているが、慰安所も設置されていた。

 ソ連軍、ドイツ軍も同様の記録がある。

 

  ***

 日本軍と慰安所問題の背景には、女性蔑視がある。これは伝統的な価値観であり、今でも克服されていない。

 著者によれば、従軍慰安婦問題の本質は次のとおり。

 

・軍隊・政府による性暴力・人権侵害の組織化

・人種差別・民族差別

・経済的に困窮していた階層に対する差別

国際法違反(未成年者使用、甘言・強圧による連行、強制使役)

  ***

従軍慰安婦 (岩波新書)

従軍慰安婦 (岩波新書)

 

  ※ 参考

 

『The Looming Tower』Lawrence Wright その3

 11 暗黒の王子

 本書は元FBI職員のジョン・オニールを、合衆国側の主要人物(狂言回し)として設定している。

 FBI本部に着任したジョン・オニールは、ラムジ・ユセフ目撃の報を受けて、パキスタンにおいてただちに「rendition(国外での逮捕連行)」を実行した。

 かれは仕事中毒で、他人にもそれを強要した。部下は皆自分の人生を犠牲にした。

 FBIは、ニュージャージーフィラデルフィア出身の、イタリア系、アイルランドカトリックが多く、これまでは同じ出自のマフィアたちを相手にすることが多かった。

 オニールは、当時ほとんど注目されていなかったイスラム過激派に目をつけ、ビンラディンの行方を追った。

 アルカイダは、核兵器を入手できないかどうか、ソ連等と交渉していた。

 

 12 少年スパイ

 エジプト情報機関は、ザワヒリのジハード団を追い詰めるためにおぞましい作戦を実行した。容疑者の子供を誘拐し、性的暴行を加え、その様子を撮影し、スパイに仕立て上げた。

 しかし作戦は失敗し、ザワヒリは子供を処刑した。

 ザワヒリらはエジプトを逃れ、各国のエジプト関連施設を爆破した。

 ビンラディンスーダンを出国せざるを得なくなった。かれの事業は失敗し、資金源は絶たれ、スーダンの庇護も受けられなくなっていた。証言では、かれは事態を打開する知力に欠けていた。

 

 13 聖遷

 ビンラディンアルカイダアフガニスタンに逃亡した。

 アフガン内戦では、タリバンが台頭しつつあった。ムジャヒディン出身のオマル師が指揮するタリバンは、サウジアラビア及びパキスタンの支援、神学校の経営、アヘン栽培の3つの柱により、急速に勢力を拡大した。

 タリバンは原始的なイスラーム主義を強制したが、アフガン人は安定のために仕方なく従った。

 ビンラディンはトラボラ山脈の洞窟に住んだ。タリバンとは異なり、アルカイダは重機やビデオメッセージ等、現代的な技術を利用した。

 このとき、後にボジンカ計画を立案するハリド・シェイク・モハメドビンラディンを訪問した。モハメドは、飛行機をハイジャックしアメリカの重要施設に突撃する計画を語り、ビンラディンに影響を与えた。

 

 14 運用状態

 FBIとCIAの合同部署と、それぞれの方針の違いについて。

 

FBIは、ビンラディンの犯行の証拠を追求する。

・CIAは、ビンラディンの殺害を第1に考える。

 

 15 パンと水

 タリバンのオマル師は、ビンラディンとは主義を異にしていたが、パシュトゥン人の掟に従い、来客をかくまった。

 やがて、タリバンアルカイダは協力し、9.11の2日前に行われたマスード暗殺等でアルカイダも貢献した。

 ビンラディンが洞窟で生活している間、エジプトではイスラム集団がテロを起こした。

 97年のルクソール観光客襲撃事件では60人あまりの外国人が殺害された。テロリストは観光産業に打撃を与えようとしていた。これを機会に、ムバラクは取締りを強化し、大規模テロは起こらなくなった。

 

 16 「Now it begins」

 ザワヒリは組織が分裂するのを承知でアルカイダと連合し、合衆国を主敵に定めた。合衆国から圧力を受けたサウジアラビアは、タルキ王子を派遣し、タリバンに対しビンラディンの身柄引き渡しを求めた。しかし拒否された。

 98年、ケニア米国大使館とタンザニア大使館の同時爆破テロが起こった。ジョン・オニールらFBIは現地に赴いて捜査し、容疑者を捕まえた。しかし、CIAとFBIは情報を共有せず(CIAは他部署に情報を与えなかった)、アルカイダの次なるテロにつながる情報は途絶えてしまった。

 米軍は、報復としてアフガンのアルカイダキャンプを爆撃した。数人の聖戦士が死亡したが、ビンラディンらは助かった。

 

 17 新しい千年紀

 ジョン・オニールらは、ビンラディンアルカイダのテロを阻止するために尽力した。

 

 18 ブーム

 アフガン戦争時代のムジャヒディンは、多くの専門職や犯罪者を含んでいた。

 90年代以後、アルカイダのキャンプにやってくるのは富裕層・高学歴の若者が多数だった。かれらは故国を離れて、欧米で孤独な生活をするうちにイスラーム主義に傾倒していった。かれらは殉教することを熱望した。

 当時の軍事訓練資料から、アルカイダの目的が明らかにされている。

 

・地上に神の国をつくる。

・神のもとでの殉教を達成する。

ムスリムを悪行から純化する。

 

 アルカイダの敵は次のとおり。

・異端(世界のムバラクたち)

シーア派

アメリ

イスラエル

 

 2000年に入り、ビンラディンアメリカ国内での同時テロを企画していた。ハンブルクで教育を受けたモハメド・アタらは、欧米での生活経験があり、英語ができるという点で、テロ実行者の条件に適合していた。

 2名の構成員がアメリカに入国したとき、CIAは情報をつかんでいたが、国内担当のFBIに通知しなかった。

 911につながる手がかりはこうして失われた。

 

 ビンラディンは次のテロを指示した。2000年10月、イエメンのアデン湾にて給油中の駆逐艦コールに自爆ボートが突撃し、17名の米水兵が死亡した。

 オニールらは200名ほどでイエメンに乗りこんだがアルカイダにつながる証拠を発見できなかった。

 

 19 盛大な結婚式

 アルカイダ関連人物が続々とアメリカに入国し、飛行訓練を受けているという情報をCIAはつかんでいた。また、偶然逮捕されたムサウィ容疑者への尋問から、同時多発テロ計画が明らかになった。

 しかし、CIAはFBIに一切の情報を与えなかった。

 このため、9.11の阻止は失敗した。サウジアラビアの内相タルキ王子も、ビンラディンを拘束できなかったために更迭された。

 オニールはFBIを退官し、WTCの保安業務についていたが、救助活動を支援している最中に倒壊に巻き込まれ死亡した。

 

 20 解放

 FBIの捜査官が、イエメンで勾留されていた容疑者を尋問したことで、9.11とアルカイダの関連が証明された。

 捜査官はアラブ系アメリカ人であり、容疑者に対し信仰の面から問い詰めることで自白を引き出した。

 アルカイダタリバン多国籍軍の攻撃により四散した。ビンラディンザワヒリパキスタンへと逃亡した。
  ***

 

The Looming Tower: Al Qaeda and the Road to 9/11

The Looming Tower: Al Qaeda and the Road to 9/11

 

 

『The Looming tower』Lawrence Wright その2

 5 奇跡

 ビンラディンは未熟なムジャヒディン……アラブ・アフガン達を率いて、パキスタン国境の山に秘密基地を作った。それは、「オサマ(ライオン)」の名をとって「ライオンの洞窟(the Lion's den)」と呼ばれた。

 かれらはソ連軍に攻撃を加えようとしたが、軍事的に稚拙であり、ある時には、アフガンゲリラから足手まといを宣告された。

 ビンラディンの親友がかれに対し帰国を説得したが拒否された。ビンラディンとその部下たちは聖戦思想に没入していた。

 あるとき、ソ連軍を奇襲し、さらに大規模な特殊部隊の反撃に抵抗し、かれらを撤退させたことが、戦闘員の神がかりをさらに強化した。

 ムジャヒディンとビンラディンの戦功は伝説化された。

 

 6 基地

 ザワヒリはムジャヒディンを通じてビンラディンと知り合い、同志となった。ザワヒリペシャワールで活動するうちに思想を変えていき、暴力を肯定するジハード主義者になった。

 

 破門(takfir, excommunication)は、ムスリム同胞の殺害を正当化する論理であり、エジプト人過激派の国内テロの根拠となった。

 ビンラディンは統率力と資金を、ザワヒリは具体的な手段を持っていた。ザワヒリエジプト人の秘密戦士たちを集め、ムジャヒディンを強化した。

 ソ連撤退後、聖戦の方向性を巡って組織は分裂した。エジプト国内での闘争か、全世界的な闘争か、意見が分かれた。

 ムジャヒディン内ではザワヒリ、アブ・ウバイダ、ファドル博士らエジプト人が力を持った。

 

 アフガンは共産党政府と軍閥同士の内戦となった。ISI(パキスタン統合情報局)とザワヒリらは、ヘクマティヤール(パシュトゥン人、パキスタン人と同族)らの支援を主張したが、アブドゥル・アッザームはマスード(タジク人)への加勢を主張した。

 ビンラディンサウジアラビア情報庁の助言に従い、軍閥の内戦からは手を引いた。帰国後、アブドゥル・アッザームはザワヒリらの爆弾テロにより暗殺された。

 

 7 英雄の帰還

 サウジアラビアに帰国したビンラディンは、アラブ人の中で英雄となっていた。かれの威光は、サウド王家の腐敗を際立たせた。

 政府は過激派をなだめるために、かれらに生活指導や宗教指導を実施させた。

 フセインクウェートに侵攻し、サウジアラビア国境に入りこんだ。サウジアラビアは軍の規模が小さく、イラク軍に対応することは不可能だった。

 ビンラディンら過激派たちは、世俗派のフセインを敵視していた。かれはムジャヒディンを率いてたイラク軍を撃退すると主張した。しかし、治安担当のタルキ王子はこれを拒否し、サウド王家は米軍と多国籍軍を呼んだ。

 

 ビンラディンは自国に異教徒が入ってきたことに衝撃を受けた。また、米軍の到着に呼応するように、サウジ国内で自由化運動がおこった。

 

 8 楽園

 サウジアラビアは、帰還兵と同じく、社会に適応できないムジャヒディンの若者たちを支援し、アフガンに再び送り出した。危険分子を国内から追放するという意図からなされた行為だが、かれらが帰ってきてどんな影響を及ぼすかまでは予測できなかった。

 

 ビンラディンはスルダンのハルツームに移動し、道路などの建設に取り組んだ。当時クーデタで権力を握っていたイスラム民族戦線の扇動者、ハサン・トゥーラビーが、アルカイダをかくまった。

 かれはハルツームで、家族、50人以上の若者と幸せに生活した。ムジャヒディンたちは建設作業員となっていた。その間、聖地に踏み入り、イスラエルを支援し、腐敗した文明をもたらすアメリカと戦う計画を練っていた。

 ハルツームには、多くのサラフィー主義者と危険な組織が終結していた……ザワヒリのジハード団、シェイク・オマル・アブドゥル・ラフマンのイスラミック・グループ、ハマス、アブー・ニダル組織、ヒズボラ、カルロス・ザ・ジャッカルなど。

 

 アルカイダのアブー・ハジェルは、サラフィー派の思想家イブン・タイミーヤを引用し、2つのファトワを発した。すなわち、敵を助けるもの、敵のそばにいるものは誰でも殺されて当然である。もし殺された者が良いムスリムなら、かれは天国に行き、悪ければ地獄に行くだろう。

 あわせて、自爆テロを殉教として正当化し(本来、イスラームでは自殺は禁忌である)、その後のテロ活動を誘導した。

 アルカイダは、アメリカを敵と認定した。

 

 9 シリコン・バレー

 アメリカに住んでいたアブドゥル・ラフマンは、アラビア語を使い、各地で反米闘争を扇動していた。

 1993年、ラムジー・ユースフは世界貿易センタービルの駐車場に爆弾をしかけ、4人を殺害、1000人以上を負傷させた。

 ザワヒリのジハード団は、エジプトでの取締りと資金難のために壊滅寸前だった。エジプト人構成員の多くは、ビンラディンのグローバルジハードに懐疑的だったが、ザワヒリアルカイダとの統合を決めた。

 

 10 失楽園

 アルジェリアでは無差別テロを繰り返す組織(アルジェリア武装集団)が活発だったが、市民を虐殺し評判が悪かったので、ビンラディンは資金援助を拒否した。

 94年に、ビンラディンは暗殺者に命を狙われた。その後、サウジアラビア政府はビンラディンの市民権を剥奪し、また家族からの送金を停止させた。

 ビンラディンは資金を失い、ジハードに挫折しかけた。

 サウジアラビア政府は友人を派遣し、アメリカに対するジハードをやめて帰国するよう促したが、かれは相手にしなかった。

 かれは「現実を見失っていた」。

 「つづく」

 

The Looming Tower: Al Qaeda and the Road to 9/11

The Looming Tower: Al Qaeda and the Road to 9/11

 

 

『The Looming Tower』Lawrence Wright その1

 エジプトにおけるイスラーム主義運動の勃興から、2001年同時多発テロ事件までをたどる本。アメリカではベストセラーになった。

 

 FBIアルカイダの名に注目したのは1996年頃である。当時、アメリカに敵対する主だった勢力は、もはや存在しないと思われていた。

 アルカイダは単なる野蛮人や古い狂信者ではなかった。その起源はアメリカであり、また歴史も比較的新しい。

 

 ◆メモ

 イスラーム過激派の台頭した原因は単一ではない。

アラブ諸国の停滞

イスラエルパレスチナ紛争

世俗主義指導者(ムバラク等)による弾圧

・宗教的な信念(イスラーム国家の樹立、教義)

 

 社会的な不安と不満がある限り、過激な暴力活動にひきこまれる人びとがいなくなることはないと考える。共産主義全体主義イスラーム主義の土台は、抑圧や貧困である。かれらは、生活を通して、自己を否定され続ける。

 このような不満の源泉が生活水準や金銭だけでないことに注意しなければならない。

 本書が細かくたどっている通り、イスラーム過激派の始祖クトゥブや、ビンラディンザワヒリ、その他テロの実行犯のほとんどは、恵まれた環境、または先進国で育っている。

 

 イスラム過激派の台頭を、アフガン・パキスタン情勢・各国情報機関の動きを中心にたどった本としては『Ghost Wars』があり、こちらも参考になる。

Ghost Wars: The Secret History of the CIA, Afghanistan, and bin Laden, from the Soviet Invas ion to September 10, 2001

Ghost Wars: The Secret History of the CIA, Afghanistan, and bin Laden, from the Soviet Invas ion to September 10, 2001

 

 

  ***

 

 登場人物

・サイード・クトゥブ……エジプト人イスラーム主義を唱え、世俗派政権に弾圧され処刑される。

アイマン・ザワヒリ……エジプト人。ジハード団の指導者。

ウサマ・ビン・ラディン……サウジアラビア人。

・アブドゥル・アッザーム……パレスチナ神学者。ムジャヒディンの活動においてビンラディンの師となるが、内部抗争でエジプト系構成員に殺される。

・ハサン・トゥーラビー……スーダンイスラム民族戦線の扇動者。バシル大統領のクーデタに貢献し、テロリストを保護した。

・オマル・アブドゥッラフマン……イスラム集団、WTC爆破事件に関与

・ラムジ・ユセフ……WTC爆破事件

ムハンマド・オマル……タリバンの指導者。

・ハリド・シェイク・モハメド……ボジンカ計画の立案者。甥のラムジ・ユセフとともに、フィリピン航空機に爆弾をしかけ、日本人を殺害した。

 

 用語

ムスリム同胞団

サラフィー主義

ワッハーブ派

・ジハード団

・ムジャヒディン

イスラム集団


  ***

 1 殉教者

 エジプトの思想家サイード・クトゥブ(1906~1966)は、アメリカに留学し自らのイスラーム主義を過激化させた。かれはアメリカ文明を物欲と性欲の権化と断定したが、それは皮相な理解に過ぎなかった。

 エジプトでは、オスマン帝国出身のファルークによる専制が続いていた。西洋、自由、民主主義、外国人統治者に反対し、イスラム国家の樹立を理想に掲げるムスリム同胞団が勃興した。同胞団は、暗殺・テロを任務とする秘密部隊を持っていた。

 帰国したクトゥブはムスリム同胞団に加わった。

 ナセルのクーデタによりエジプト人国家が誕生するが、かれは世俗国家、社会主義国家を目指し、ムスリム同胞団を弾圧した。

 クトゥブはその後投獄され、最終的に処刑された。かれの著作が若い世代に影響を与え、ジハード主義者の種をまいた。

 

 2 スポーツクラブ

 アイマン・ザワヒリ(1951~)はカイロ郊外の旧家に生まれ、クトゥブと知り合いだった叔父の影響を受け、イスラーム主義に身を投じた。

 かれは医者としてペシャワールに向かい、アフガン戦争の難民を助ける過程で、ムジャヒディーン(アフガン反ソ勢力)とのつながりを持った。

 イスラエルに対する敗北により、アラブ世界には失望が広がっていた。それが、「神がかり」、イスラーム主義の台頭につながった。

 学生たちは様々な小さいイスラーム集団をつくった。ザワヒリも秘密主義的なセクトに所属し、活動に励んだ。

 当時、ムスリム同胞団の戦いは「近くの敵」、つまり、非イスラーム的なエジプト政府に向けられていた。

 サダトが暗殺された直後、政府はザワヒリを含む多くの学生、イスラーム運動家、学者、ムスリム同胞団員を捕えて拷問した。

 かれらは拷問によって、さらに復讐心をたぎらせ、狂信的になった。

 拷問によって仲間を裏切ったことは、ザワヒリの心に傷を残した。かれはジハードの基盤を作るためサウジアラビアに逃亡した。

 

 3 設立者

 オサマ・ビン・ラディン(1957~2011)の父ムハンマドビン・ラディンは、イエメンからサウジにやってきた労働者で、サウジアラビアの石油産業にあわせて建設業を起こし、サウード王家と関係を深め億万長者になった。かれはサウジアラビアの多くの公共建築や道路建設に携わった。

 オサマ・ビン・ラディンは、ムハンマドの17番目の子供だった。かれは信心深く冒険的だったが、学力はあまりなく、大学を中退して一族の会社で働くことになった。

 学生のときにムスリム同胞団に入ったが、そのときはまだジハード思想には染まっていなかった。

 サウジ社会の急激な近代化は、ムスリムの中で反発を生んだ。人びとの間でイスラーム主義への傾倒が広まった。

 

 4 変化

 1979年、イスラーム世界では3つの事件が起きた。

 イラン革命は、スンニ派にもイラン同様の宗教国家樹立の設立を促した。

 

 アル=ハラム・モスク占拠事件:サウジアラビアのメッカで、ムスリム同胞団構成員からなるグループがマフディ(救世主)を擁立し、グランド・モスクに立てこもった。

 テロリストはサウジ王族を不信仰者と批判した。

 王と情報機関の長であるタラキは、フランスの特殊部隊(GIGN)の支援を受けて、テロを制圧した。100人以上のテロリストが殺害、処刑され、また数百人の人質と兵隊が死亡した。

 

 同年、ソ連がアフガンに侵攻した。サウジアラビアは、自国の過激派を懐柔するために、アメリカとともに、パキスタン統合情報局(ISI)を通じてアフガン軍閥(7人の小人)を支援した。

 ビンラディンとその導師アブドゥル・アッザームは、豊富な資金と宣伝活動により、ソ連に対する聖戦を呼びかけた。ビンラディンは王家とビンラディン財閥、そしてパキスタン統合情報局の支援を受けて、ムジャヒディンの渡航や訓練、ペシャワールでの拠点構築を行った。

 ビンラディンとアッザームは、イスラーム世界のなかでカリスマ性を獲得していった。

 外国人戦闘員がアフガン戦争に与える影響はそう大きくなかったが、かれらの多くは狂信的であり、その後、故国に帰ることができなくなった。

 

[つづく]

The Looming Tower: Al Qaeda and the Road to 9/11

The Looming Tower: Al Qaeda and the Road to 9/11