うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『アメリカの秘密戦争』セイモア・ハーシュ その1

 副題:9.11からアブグレイブへの道

  ***

 著者は、まえがきによればボブ・ウッドワードと並ぶ調査報道の第一人者である。

 

 ――わたしは昔ながらの左翼、過激派、人種差別主義者などを取材してまわろうとは思わない……昔気質の善良な民主主義者を取材する。政治的に偏った人びとの言葉をもとに判断をくだすのはまずいと、ずいぶん前に悟った。肝心なのは、その人間が誠実であるかどうかだ。

 

 刊行されたのは2004年だが、イラク戦争の失敗要因や問題は本書でほぼ出尽くしている。

 

  ***

 1

 

 ――国防総省ホワイトハウスは、戦略的欺瞞という名分を用いて、現実とは逆の事柄を公に口にすることがある。むろん、政府が二枚舌を使ったりだましたりする相手は、アルカイダその他のテロリスト集団ではなく、アメリカの報道陣や国民なのだ。

 

 2002年設置のキューバグアンタナモ海軍基地収容所において、アフガニスタンから連れてこられた被疑者たちが拷問や非人道的な取り扱いを受けているという報告が問題となった。

 ブッシュ大統領ラムズフェルドらは、収容所にいるのは敵性戦闘員であるため、ジュネーブ条約国際法の適用外となることを承認していた。

 グアンタナモでは、明らかに無関係の高齢者や知的障害者、子供たちがテロリストと疑われ、尋問・拷問されていた。

 赤十字や、FBI、軍内部からも、テロ対策にとって無意味どころか有害であると抗議があがったが、政府高官は動かなかった。

 2003年8月、イラク戦争の雲行きが怪しくなると、大統領らはグアンタナモの方式をイラクでも採用することにした。

 大統領と国防総省上層部は、軍の指揮系統にとらわれず、秘密裏に人間狩りを実施できる「特別アクセスプログラム」を開始した。これは完全に秘密事項となった。

 2004年2月末発簡の内部報告書には、アブグレイブでの虐待の細部が書かれていた。

 情報部隊(MI)、民間軍事会社の指揮下、憲兵隊が捕虜に対し虐待を行っていた。義憤にかられた1人の憲兵が写真を部外にリークしたことで事件は世界中に広まった。不法行為の指揮はCIAと情報部隊、民間人がとっていた。

 グアンタナモ所長ミラー准将の方針により、情報部隊が指揮をとりアブグレイブに尋問・拷問を導入した。

 

 ――2004年8月に一部の記者に提供されたミラーの秘密報告書の完全版によって、ミラーの計画に大胆な目標があったことがはっきりした。アブグレイブを、ブッシュ政権のテロとの世界戦争のための情報センターにしようというのだ。

 

 ブッシュと軍上層部は、一部の暴走だと弁解したが、報告書は「米陸軍最上層部の指導力の欠如による集団的な不法行為である」と指摘した。

 

 ――同盟国の連中ならこういうだろう。捕虜の歯や指を引っこ抜いて、いい情報を手に入れた。そいつは死んだが、知ったことじゃない。同盟国の将校を使って頭をかち割るのと、米兵に同じことをやらせるのとの境目が、だんだんぼやけてきたんだ。

 

 特別アクセスプログラムについて。

 

 ――なぜ隠密のままにしておくのか? ……手順が不快感を与えるからだ。ソーセージ作りと同じだ――できあがったものは好きだが、どうやってつくるかは知りたくない。それに、イラク国民やアラブ世界に知られたくない。そもそも、われわれがイラクに侵攻したのは、中東を民主化するためだった。刑務所でアラブ人にどんな仕打ちをしているかをアラブ世界に知られては困る。

 

 2

 なぜ9.11が防げなかったのかについて。

 情報機関の失敗……要因は、ジェイムズ・バムフォードの"Pretext for War"でも言及されている。

 

・冷戦終結後のCIAの現地工作員縮小

・各情報機関の不和

・テネット長官らCIAが、政権に従順すぎたこと

FBIの情報分析・統合能力の欠如

 

 テロから2年経っても、局内でパソコンに互換性がない、メールを送れるパソコンが各階に1台というような実情が改善されていなかった。

 9.11実行犯の1人と疑われたフランス系のアルカイダメンバーについて。

 

 ――……ムサウィのような若者が進んで極端な道を選ぶのは、自分は「取るに足らない存在」だという気持ちから抜け出すためだ……かれらが人前で語れるアイデンティティは、イスラムしかない……フランス人というアイデンティティを受け入れれば、毎日二流市民として生活しなければならず、劣等意識を認めることになる……。

 

 3

 アフガニスタン侵攻では、公には伏せられていたが、国防総省の上層部(文民)と軍との不和がおこった。

 多国籍軍の作戦は成功に終わったという報道や発表がなされているが、実情はそれとかけ離れている。

 

・米軍は地方軍閥を支援することでタリバン時代よりも治安を悪化させた。地方軍閥は、麻薬栽培と取引で勢力を強めていった。同時に、テロリストたちも潜伏した。

・米軍の傀儡であるカルザイ大統領には実権がなく、実際にはカーブル市長でしかなかった。

 

 ――ハミド(カルザイ)はいいやつだ。人を殺さない。物を盗まない。麻薬を売らない。でも、そんなやつが、どうしてアフガニスタンの指導者になれるんだ?

 

・米軍の作戦は広大な領域を制圧するものではなかった。間もなくタリバンアルカイダは勢力を取り戻した。特殊作戦専門の退役将官が、アフガンにおける作戦を批判する報告書を書いたが握りつぶされた。

・米国には、アフガン侵攻をどのように終結させるかのプランがなかった。治安が徐々に悪くなっていく現状に対して、国防総省の閣僚は「正しい人びとが出現することを願う」とだけいった。

イラク戦争の開始とともに、現地工作員や軍の主力が引き抜かれていき、アフガンは手薄となった。

 

 [つづく]

 

アメリカの秘密戦争―9・11からアブグレイブへの道

アメリカの秘密戦争―9・11からアブグレイブへの道

 

 

『北條民雄 小説随筆書簡集』

 作者は、自らの体験をもとにハンセン病(旧称は「癩病」)患者を題材にした小説を作った。

 

 各短篇の主人公はそれぞれ異なるが、物語の要素がゆるやかにつながっており、全体として施設の様子とそこで生活する患者たちの姿が浮かび上がる。

 風景の創造については、化け物屋敷、うごめく泥人形たち、膿の匂い等、おどろおどろしい要素がある。

 しかし、文章から感じられるのは完全な絶望ではない。癩病院に入れられた主人公や患者たちは、社会から排除され、人間の形を失ってもなお、命そのものが存在するのだ、と考える。

 癩患者に対する処置や差別を告発するという意図は明確には示されていない。

 作者は患者である前に、まず文学青年だったようだ。

 作者は若者の1人として、ロシア文学を読み、またマルクス主義に関心を持った。しかし、作中で描かれているように、癩病にかかったということで社会から隔離され、社会へ参加することができなくなった。

 そのようなとき、果たして何が意味のあることなのか。創作物、エッセイにおいて、生きている意味があるのか、死んだほうがいいのではないか、という自問自答が繰り返される。

 代表作もおもしろいが、川端康成との書簡も重要である。

 小さな個人は自分の問題……病気や個人的な事情にどのように向き合えばいいのか、また、そのような些末な個人にとって大社会とは何なのか、考えなければならない。

  ***

 癩患者たちは存在を抑え込まれている分、生きる意義について深く考えていたのか、それとも、作者が自分の世界観を投影させたのか、事実はわからない。

 しかし、一連の作品は完全なフィクションであり、癩病院と患者たちの強烈な図像と、強力な台詞から成り立っている。

  ***

 「いのちの初夜

 ――あの人達は、もう人間じゃあないんですよ。……人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。……あの人達の『人間』はもう死んで亡んでしまたんです。ただ、生命だけが、ぴくぴくと生きているのです。なんという根強さでしょう。……社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕等は不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。

 

 「道化芝居」

 夫婦の寸劇は不要と感じた。

 

 「癩を病む青年達」

 ――彼らは終日食べ物の話か女の話かで時を過ごすのであるが、しかし成瀬を興味深く思わせるのは、そうした話と同様に彼らの興味が社会事情にも向けられていることであった。社会事情といっても三面記事的な出来事よりも、国際問題がどうの岡田内閣がどうの、今度の暗殺事件はどうのと、こういう話が一度誰かの口に上ると、何時果てるかと思われるほど、彼らは眼の色を変えながら口角から泡を飛ばすのである。これはどうしたことであろうと成瀬は時々考えてみるのであるが、もはや完全に社会生活から切り離されてしまっている彼らが、どうしてこうも今の自分の生全体と無関係なことに興味を持つのか、不思議といえば不思議であった。……しかし確かに云えることは、無意識的に彼らが社会へのあこがれを蔵しているということと、現在の自己を忘れたい、自己を病室に置きたくないという欲求の表れであるということである。

 

  ***

 ――実際私にとって、最も苛立たしいことは、われわれの苦痛が病気から始まっているということである。それは何等の社会性をも持たず、それ自体個人的であり、社会的にはわれわれが苦しむということが全然無意味だということだ。

 

 ――だから私はもう少し癩を書きたい。社会にとって無意味であっても、人間にとっては必要であるかもしれぬ。

 

  ***

癩病院は、癩患者とその介護者等が集まってつくられたコロニーである。

・喉癩とは、喉に症状が現れたため、穴をあけて管を通して呼吸しなければならない状態である。

 

北條民雄 小説随筆書簡集 (講談社文芸文庫)

北條民雄 小説随筆書簡集 (講談社文芸文庫)

 

 

『特攻』森本忠夫 その2

 3

 1944年6月、マリアナ沖海戦(「あ」号作戦)失敗によって、特攻兵器……回天、震洋、海龍、震海を使う方針が固まっていった。

 海軍においては、零戦等の航空特攻、回天、震洋、桜花など、いずれも、現場の下級指揮官からの熱望という、ボトム・アップの体裁をとって進められた。

 一方、陸軍では1944年2月から、航空総監兼航空本部長後宮淳や本部次長菅原道大らを中心に、トップ・ダウン式に特攻隊の編成が進められた。

 後宮総監が着任後、若手参謀らに対し、体当たり作戦の決行を唱えた。このとき反対した内藤進少佐は間もなくパレンバンに飛ばされた。

 陸軍航空特攻には、九九双軽や四式重などが用いられた。

 陸海軍ともに、特攻隊を正式な部隊として天皇に上奏することはなかった。特攻部隊は、各指揮官による私設の集団という位置づけとなった。

 

 ――……陸軍の上層部もまた海軍の大西瀧治郎中将同様、特攻作戦を「統率の外道」と考え、そのような作戦を天皇の名において実施することの不遜さを感じていたことの、これは隠微な証左でもあった。

 

 特攻作戦が実行されようとするとき、同時に海軍上層部では和平交渉の動きが始まっていた。軍令部総長及川古志郎は、そうした動きを知っていながら、和平とは相容れない特攻で若者を死に追いやっていたと推測される。

 

 4

 1944年10月からフィリピンにおいて始まった特攻作戦について。

 

・海軍の第1神風隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊、菊水隊)の隊員は指名によって実施された。その後は、志願制あるいは名ばかり志願制によって隊員が決定された。

・海軍特攻は「零戦」、「彗星」、「九九爆」、「銀河」、11月から加入した陸軍特攻は「四式重」、「九九双軽」、「一式戦」、「九九襲」などが使用された。

・最初期の特攻において、不時着した磯川一飛曹は、死んだはずなのに帰ってきたため罵倒され、フィリピンに残置された。その後内地での防空戦闘で死んだ。

 フィリピン引き揚げの際、「あとに残って最後まで戦い、比島に骨を埋める」と訓示をたれた指揮官たちが、搭乗員たちより先に台湾に引き上げていたことが発覚した(このエピソードは富永恭二のことである)。その中には、磯川を罵倒した指揮官も含まれていた。

 

 5

 連合軍の沖縄上陸に伴い、本土からの特攻が引き続き行われた。

 1945年4月、海軍軍令部の参謀神重徳の発案により、戦艦大和の水上特攻が計画された。整備不十分のまま大和は沖縄本土に向かって進み、間もなく撃沈した。

 大和特攻の理由は以下のとおり。

 

・兵と船を遊ばせておいてもしょうがない

・奇跡に賭ける

・「陛下が特攻は航空兵器だけかとコメントされた」

・「一億総特攻のさきがけとして」

 


 沖縄戦においては、特攻の大義は失われ、惰性・ルーチンで隊員を自爆させる状態となった。

 

・特攻くずれ……特攻隊員たちは「〇〇組」という幟を兵舎に掲げ、昼間から酒を飲んで暴れまわった。

・自暴自棄の特攻待機員たちは実弾入りの鉄砲をもって酒を飲み、外部の介入を拒否した。

 

 ――自棄酒で眼がすわった連中がとぐろを巻いているだけではなく、みんな実弾のつまった短銃を持っているのだ。隊長でさえおそれをなして近寄れない空気であった。

 

 ――……特攻が飽和現象となり倦怠現象となっていたのである。……ある予備士官と思われる人物に、鈴木と吉川が「たるんどる! 消耗品の屑めが!」と侮辱される場面がある。

 

 戦況に影響を与えるかどうか疑わしいことに加え、長期間の特攻待機は当事者たちの精神を荒廃させていった。

 

・最終的には、特攻拒否や、出発してもそのまま引き返す例が増えたが、軍はそのような人間を名簿から削除し存在しないことにした。

・機体には型落ちの旧式や練習機が使われた。また、直掩戦闘機もつかないことが増えたが、これでは敵艦にたどりつくことも困難だった。

 

  ***

 特攻作戦実行の関係者

 海軍

・及川古志郎……特攻作戦時の軍令部総長

大西瀧治郎……特攻部隊編成の責任者、終戦時に特攻する。

・玉井浅一……特攻作戦の具体化、還ってきた特攻隊員を罵倒。生き残り、僧侶になる。

・猪口力平……特攻作戦の具体化、指揮、生き残り自己弁護の著作を出す。

・中島正……特攻作戦の指揮、戦後、航空自衛隊空将補、「俺は死なない。神風特攻隊の記録を後世に残すため内地に帰る」発言。

黒島亀人……水中特攻作戦の立案、具体化。戦後の証拠隠滅疑惑。

・城英一郎……特攻作戦の企画立案、戦死。

・太田正一……特攻機「桜花」、通称「BAKA BOMB」発案者。終戦直後、飛行機で行方をくらませ偽名で生活する。

・宇垣纒……終戦時に道連れ特攻(本人は同乗)。

・源田実

 陸軍

後宮淳……特攻部隊編成。シベリア抑留後帰国。

・菅原道大……特攻部隊編成、振武寮責任者。「特攻隊員の精神を顕彰する」として余生を送る。

・倉澤清忠……振武寮管理人。

・富永恭二

 

特攻―外道の統率と人間の条件 (光人社NF文庫)

特攻―外道の統率と人間の条件 (光人社NF文庫)

 

 

『特攻』森本忠夫 その1

 本書の冒頭から:

 特攻作戦は、西欧的な価値観からすると異様な自殺攻撃である。

 わたしたちは、当時の価値観がどのように特攻を正当化したかについて、また軍がどのような意思決定を経て、この異様な作戦を実行したかについて、知らなければならない。

 ◆感想

 中盤は、特攻した機体と搭乗員の記録が大部分を占める。

 他にも、作戦の上でのエピソードや、特攻作戦関係者たちの発言や行動が詳しく書かれており、責任者たちの、責任回避能力の高さを知ることができる。

 

  ***

 海軍において特攻作戦が決定された経緯を、著者は強く批判する。そこには合理性や合目的性といった観点がなく、また決定者の責任もあいまいにされたまま事が運んでいった。

 

 ――この段階の日本軍には、もはや、作戦と呼ばれるに値する作戦は存在していなかった。特攻作戦を発動しこれを全軍特攻にまでエスカレートしていった軍中央と現地の指揮官たちや参謀たちは、日本の若者に死を強制し、死を自己目的とする虚無主義的なファナティシズムの心的状況に陥ることで、作戦そのものを放棄し、同時に彼らが戦争指導者であり、指揮官であり、参謀であることを放棄していた。

 

 特攻作戦の発案者である大西瀧治郎海軍中将の言葉は、次のように批判される。

 

 ――……この時、若い特攻隊員を神に仕立て上げた大西瀧治郎中将の言葉ほど形而上学的な欺瞞に満ちた言葉はないのだが、こうした表象の中に、大西中将の部下に対する死に場所を与える大愛と大慈悲といわれる当時の軍国日本の価値観があったのである。

 

 1

 特攻……特別攻撃隊が用いられだしたのは1944年10月の比島沖海戦からである。

 大西中将が軍令部において特攻作戦を提起したとき、参謀たちは「自由意志ならいい、現場がやるしかないというならいい」、「若い人たちの心意気があるならやむをえない」というような反応を見せた。その後、成り行きによって特攻作戦の実行が決まった。

 一部の参謀を除いて、ほとんどの高級幹部は特攻に消極的だった。それはその場しのぎの作戦としては役立つかもしれない「統率の外道」だが、根本的な戦略に資するものではないからである。

 にもかかわらず、かれらは精神的な満足を得られることを否定しなかった。かれらにとって特攻は、無駄死にするくらいならやったほうがいい行為、やむを得ない行為だった。

 特攻には戦果に関する検討が欠けていた。死を覚悟して特攻をやれば当たるだろう、という念力のレベルであり、実際、圧倒的多数は敵艦にダメージを与える前に撃墜された。

 

 2

 特攻が生まれた物質的な背景は、日米海軍の圧倒的な戦力差である。著者によれば、真珠湾攻撃時の日米の差は1対1.44だったが、1944年マリアナ沖海戦頃には、米海軍の戦力は日本海軍の8倍ほど、国としての生産力は12倍以上あったという。

 1945年4月の大和沈没後、日本海軍の主力は半特攻兵器である小型潜水艦「甲標的」、特攻魚雷艇「回天」、ベニヤ板特攻ボート「震洋」、陸海軍それぞれの特攻練習機のみだった。

 

・艦艇同様、航空機生産についても、アメリカと大きな差があった。

・太平洋戦争前夜、世界の海軍の主流は大艦巨砲主義だったが、真珠湾攻撃をきっかけにアメリカは用法を見直した。一方、日本は航空機軽視の姿勢をを終盤まで変えなかった。

 大西瀧治郎は日米開戦前から航空優勢の重要さを認識していたが、生産力の問題から、海軍が方針を変える可能性は低かった。

 思考様式と、物質的基礎・経済的基礎とは不可分である。

・「海軍圧勝」の大本営発表を聞いた企業家たちは、航空機生産を増やしてしまうと、戦後、設備が余剰となりだぶつくことを危惧し、本格的な増産を渋った。

・生産に必要なアルミニウムは、航空機のためでなく、横流しのために使われていた。

・陸軍はロシア向き、海軍はアメリカ向きであり、お互いに統合作戦を行うことは敗戦間際までなかった。アメリカのような文民統制も存在していなかった。

・1944年、陸海軍は互いに対抗し、約2万5000機の航空機増産を決定した。これがそもそも実現不可能な数字でありながら、企画院は案を了承した。

・本土まで追い込まれたとき、陸海軍は初めて協同した。しかしまともな作戦計画はなかった。

 1945年6月の御前会議で開陳された戦争指導大綱は、次のような情緒作文だった。

 

 ――七生尽忠ノ信念ヲ源力トシ地ノ利人ノ和ヲ以テ飽ク迄戦争ヲ完遂シ以テ国体ヲ護持シ皇土ヲ保衛シ征戦目的ノ達成ヲ期ス。

 

[つづく]

 
特攻―外道の統率と人間の条件 (光人社NF文庫)

特攻―外道の統率と人間の条件 (光人社NF文庫)