うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『身分差別社会の真実』斎藤洋一 大石慎三郎

 本書は中世から江戸にかけての「えた・ひにん」等の被差別身分について説明する。

 

 ◆感想

 江戸時代は身分制の下に成り立っていたが、特に被差別民については、発祥は中世までたどることができるという。

 被差別民をつくりだす社会を維持してきたのは、政治権力だけでなくすべての住民である。差別は武士内部、農民内部、被差別民内部にも存在した。

 身分制の起源をたどることは、部落問題を考える上でも有意義である。

  ***

 江戸時代の身分制の特徴は、同一身分内により厳しい階級差があった点にある。

・大名……親藩・譜代・外様の区分けと、家格

・その下の武士……旗本・御家人

・百姓……本百姓と抱え百姓

・町人……町年寄、町名主、家主と店子・店借、

 身分制には建前の面があり、実際は下級武士からの登用なども行われていた。また、将軍についても、正室から生まれたのは家康、家光、慶喜のみである。

 武士身分の下に商人があり、その下に農民があった。

 一般的に武士の方が刑罰が厳しかった。

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 1 「士農工商・えた・ひにん」の虚構

 この言葉は明治につくられたもので、江戸時代の実相を示していない。

天皇・公家・神職・僧侶・山岳住民や漁民、細かい被差別身分への言及がない。

・町人・百姓に大きな身分の差はなく、幕府への貢献度で地位が決められていた。

・えた・ひにんは必ずしも上下関係にない。また、刑罰でえた・ひにんになったものは一定期間を経て戻ることもできた。

 武士・平人(町人・百姓)・被差別民は、生まれながらに固定されていると考えられていた。

 武士内部、農民同士でも格付け争いがあった。農村が自分たちの身分を巡って対立したために(門や塀・庇をつけてよい農民身分はどれか等)、幕府が農民の身分を制度化し仲裁した例がある。

 江戸時代の社会は、人びとが身分相応に生きることで安定すると考えられていた。このため、幕府は、身分不相応な振る舞いを厳しく制限した。

 江戸時代は、身分差別によって成り立っていた。

 

 2 近世被差別民の起源

 えたはちょうり、かわたとも呼ばれる。

 被差別民は、秀吉・家康といった政治権力による分断統治のために作られたのではない。

 被差別民の起源は中世にあり、10世紀初頭にはその原型が存在した。

 中世の「ひにん」……乞食、癩者、穢多、清目、庭者、細工、餌取、屠者、声聞師、千秋万歳、三昧聖、弦めそ、犬神人、放免、散所、河原者、坂の者、谷の者、悲田院、獄囚など。

 「ひにん」たちは、検非違使によって統括された。

 かれらは死牛馬の処理等を担当した。「けがれ」を「きよめ」る被差別民たちが、徐々に芸能・皮革業・勧進等に文化していき、固定したのが近世の被差別民であると考えられている。

 かわた、ちょうり等による斃牛馬処理は、幕府の通達によって次第に独占されていった。この過程で「えた」という名称が普及した。

 著者は、政治権力が制度化の際に関わった例もあるが、一義的には、被差別民は人びと皆がつくりあげたものであることを強調する。

 

 3 差別の具体相

 死穢(しえ)、つまり死を嫌う「けがれ」観念は、律令国家成立後に畿内から拡散した。

・被差別民と平民との接触禁止

・髪型、服装、家の表札の指定

・別火と別器の習慣

・隔離

・傘差しの禁止

・差別戒名

 

 被差別民相互の差別も存在した。

 

 4 被差別民の役割と生業

・皮革業

・草履・履物製造

・灯心の製造

・下級警察的な役割

・水番・井戸堀

・牢番・刑場業務

・清掃・庭作り

・竹筬の製造

・砥石

・医業・製薬業(死牛馬、屍体の取り扱いから、医学知識に長けていたという)

・芸能

 

 被差別民の業務は、平民からの要請、権力からの要請によって定められた。また、被差別民は農業も営むことがあった。一部の被差別民は大地主に成長した。

 被差別民の生業は、「けがれ」を「きよめ」る仕事という共通点を持つ。また、石や水など、自然を変形させる仕事も担わされた。

 ――そういう意味では被差別民は、「常人」と神・自然とをむすぶ位置に立っていたといえよう。

 

 5 差別とのたたかい

 屋根瓦の仕様をめぐって、被差別民と地方権力との交渉が行われた記録がある。また、経済力をつけた被差別民はしばしば権利を求めて戦った。

 明治になり、「えた・ひにん等」身分が廃止されてからも、差別は残った。解放令反対一揆は、政治権力だけでなく平民も差別を行っていたことを示している。

 各地で被差別部落が近隣の群衆に襲われ、殺戮が行われた。

 

  ***

 史料に現れる被差別民の名称

 ちゃせん

 みやばん

 とうない

 おんぼう

 猿まわし

 わたしもり

 けんご

 しく

 ささら

 しゅく

 はちや

 おんみょうじ

 あおや

 こぼし

 さんじょ

 しょうむ

 れきだい 

身分差別社会の真実 (講談社現代新書)

身分差別社会の真実 (講談社現代新書)

 

 

粘土人形制作 ウンゲルン1号 その3(終)

 人形第1号の完成までを報告します。

 

 4 手の接続、塗装

 アルミホイルでつくった腕の芯が不均衡のため、左右で手の大きさが違います。

 また、肉付けしたためうまく接続できず脱臼したようになっています。

 この時点で当該人形に対する執着を失い、塗装も投げやりになってしまいました。

 

 モノクロの写真をもとに塗装を始めたのですが、自由に色を使うと安っぽい人形のようになってしまうことを発見しました。

 これは私の塗装がへたくそということもありますが、子供の工作レベルです。

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 5 完成

 色塗りにむらがありますが、修正する気力を失っていました。

 髪の毛のうねりと、衣服の下半身部分は予想よりよくできました。

 

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 その他教訓

・自立するためには粘土が固まるまで確実に姿勢を固定する

・単色、あるいは銅像の錆を表現する

チベット仏教画の顔面塗りを参考にする

・顔、とくに眼球の造形が肝要である

城壁は声をひそめる

 粘土が積み上げられ、

 草の

 黄色と茶色の

 きびしい壁に

 わたしたちは

 行く手をはばまれた。

 

 壁にはりつき、

 列の奥から、奥からは

 教徒たち、山の、小柄な

 戦闘員たち、また

 山と森の、スカーフを

 巻いた人たち

 そういった、雇われた外国の人びとが

 ライフルを指向した。

 

 壁の向こうにいる

 小さい眼

 細い眼

 皮張りの、動物の皮をひきのばしたような

 もう1つのわたしたちを狙うだろう。

 

 ゆくゆくは

 照星のなかに、

 わたしたちの、顔、顔を

 見出すだろう。

 

 真昼に、

 壁の根っこに

 屍体が積みあがる。

 

 赤い服の男たちは逃げた。

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『ガンジー自伝』

 ガンジーが、自分の半生を淡々と記述する本。

 ◆メモ

 ガンジーはインド人の権利のために活動した。非殺生(アヒンサー)の教えは、実現は困難だが尊いものであると理解できる。

 一方で、菜食主義、禁欲、牛乳の禁止を実践することは、誰でもできるわけではない。

 かれの信心深さは、言葉だけをとらえると、狂信にもつながるのではという印象を受けた。
 アムリットサルの虐殺や、サティヤーグラハの経緯等、出来事について省略されている箇所もあるので、ガンジーの全貌を知るには他の伝記や評論も読む必要がある。

 

 ――わたしがなしとげようと思っていること――ここ30年間なしとげようと努力し、切望してきたことは、自己の完成、神にまみえること、人間解脱に達することである。

 

 1

 ガンジーはカチアワル半島(パキスタン沿い)出身で、首相の子供として生まれた。

 かれは教育を受ける過程で、酒、たばこ、肉食を自らに禁じた。また、13歳で結婚したがこの風習はよくないと考えるようになった。

 子供時代のいたずら、嘘をついて肉を食べたこと、妻に対し嫉妬したこと等を、反省しながら書く。

 

・インドの高等教育には、地方語、ヒンディー語サンスクリット語、ペルシア語、アラビア語、英語を入れるべきである。

 

 ――……人間は善を取り入れるよりは、悪に染まりやすいからである。そこで、神を伴侶にしようとする者は、孤独を持するか、それとも全世界を伴侶にするかせねばならない。

 

 ガンジーはイギリスに留学することになったが、その際、カーストの集会で破門された。

 

 2

 イギリスに留学し、弁護士の資格を取得した。あわせて、現地のイギリス人にマナーや会話を教わった。

 かれは引っ込み思案で、人前で演説することが苦手だった。それは南アフリカにおいて克服された。

 

 ――……真実を誇張したり、押さえつけたり、あるいは修飾したりしたい癖は、人間の生まれつきの弱点をなすものである。そしてこれを克服するのに必要なのが、すなわち沈黙である。寡黙の人は、演説のなかで、考えなしのことを言うことはまれである。かれは一語一語を検討する。

 

 ギーター、ヒンドゥーの教え、新約聖書の共通項をかれは見出した。

 

 ――自己放棄こそ、わたしには最も強く訴えるものをもった宗教の最高の形式であった。

 

 3

 知人の紹介で、南アフリカにおいて弁護士の仕事をすることになったが、ガンジーはそこで強烈な人種差別を体験する。

 

・白人と同席して暴行を受ける。

・列車から追い出される。

 ――わたしは、法律家の真の任務が、離れ離れにかけちがった事件当事者を結合させることにあることを悟った。

 ガンジーはインド人が差別されている現状を変えるために活動を開始した。

 

 4

 ボーア戦争においては、イギリスに加勢することがインド人の地位向上につながると信じ、野戦病院隊において勤務した。

 かれはイギリスの帝国主義を信じていた。

 インド人の働きはイギリス政府から顕彰された。

 

 ――わたしはいつも、インド人居留民の弱点を隠しだてたり、見逃してやったりすることや、欠点を浄めないでおきながら権利を強く主張することを好まなかった。

 ――改革を欲しているのは、改革者である。社会ではないのである。社会からは、彼は反対、蔑視、そして生命にかかわる迫害のほかに、よりよいものを期待すべきではない。改革者が、命そのもののように大切にしていることでも、社会が退歩だと言わないとはかぎらない。

 

 ガンジーは祖国への義務も重視し、本国飢饉のときに、インド人居留民に寄付を呼びかけた。

 南アフリカを出国するとき、ガンジーは高価な贈り物をたくさん受け取ったが、それを居留民の信託基金とした。その際、贈り物の返却をめぐって妻と争いになった。

 

 ――公のために奉仕している者は、けっして高価な贈り物はもらってはならないというのが、わたしの確固とした意見である。

 

 5

 南アフリカにおいて、新聞紙『インディアン・オピニオン』を経営する。

 ズールー戦争では、イギリスの正義を信じ参戦するが、敵対するアフリカ部族への共感が生じた。

 ブラフマチャリアとは、禁欲のこと。

 

 6

 南アフリカのアジア人登録法に抵抗する、サッティヤーグラハ(真実と堅持)運動を開始した。

 

 ――犠牲というものは、それが純粋であってのみ、その範囲で実を結ぶのである。神は人間に献身を待ち望んでおられる。神は、真心をこめて、すなわち、私心なく捧げられた貧者の一燈を喜ばれ、そして、これを百倍にして報いたもうた。

 

 7

 第1次世界大戦と非殺生(アヒンサ)、帝国への協力と参加について。

 ガンジーはイギリスとともに参戦することを訴えたが、この方針と非殺生との一貫性はなかなか理解が難しい。

 

 8

 ガンジーイスラムとヒンドゥの協力を目標にしていた。しかし理想は実現しなかった。

 

 9

 会議派の運動について。

 

 ――ヒンドゥ、イスラム両教徒の統一、アウトカースト制度の排除、ならびに手織布地(カーディ)についての各決議もまた、この大会で採択された。

 

 1921年からガンジーは会議派に参加した。

 かれの価値観は真実と非殺生とにある。宗教から政治を切り離すことはできない。

  ***

 

ガンジー自伝 (中公文庫BIBLIO20世紀)

ガンジー自伝 (中公文庫BIBLIO20世紀)