うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Diplomacy』Henry Kissinger その5

 ~ベトナム戦争から現在へ~

 

 ◆ベトナム戦争の失敗

 米国は国益よりも主義・イデオロギーを選んだ。そのため、支援が失敗した場合、自らが乗りこんでベトナム共産化を阻止しなければならなくなった。

 ゲリラ戦は、完全に勝利するか、敗北するかのどちらかしかない。アメリカは、戦力を逐次投入し、徐々に戦争を拡大させていくという失敗を犯した。

 ケネディ南ベトナム援助を引き継いだ。しかし、ゲリラが活発化し、ゴ・ジン・ジェム政権が人心を失うにつれて、米国は国家建設を含む包括的な支援をする必要にせまられた。

 1963年にケネディが暗殺され、ジョンソンが大統領に就任した。ゴ・ジン・ジェム政権はクーデターで転覆したが、米国はベトナムから手を引かなかった。

 ジョンソンは爆撃と派兵を続けながら、常に和平しようとしていた。しかしその条件は、北ベトナムとゲリラには到底受け入れられるものではなかった。

 1968年のテト攻勢は、従来型の野戦となり、結果的には共産勢力の損害が大きかった。しかし、大々的な北側の攻撃は米国に大きな衝撃を与え、ジョンソン政権を支えてきたタカ派保守主義者たちもベトナム政策を見放した。

 

  ***

 1969年以降、ニクソンキッシンジャーは、北ベトナム南ベトナム解放民族戦線と和平交渉を行ったが、順調にはいかなかった。北ベトナムは、妥協することなく徹底抗戦することでアメリカを追い払えると確信していた。

 ニクソンは、アメリカの威信を守り、大統領としての責任を果たすため、「名誉ある撤退」を追求した。

 1973年1月、パリ協定によりアメリカは米軍の撤収を決定した。しかし、北ベトナムはその後協定を破り南ベトナムに侵攻し、1975年に統一を果たした。

 キッシンジャーは、ベトナム戦争が間違いであることを認めながらも、90年代に入り、アメリカは再び新秩序の担い手として世界に求められている、と総括する。

 その後のアフガン、イラクを考えると、国家は学習しないことを痛感させられる。

 

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 ◆ニクソンの外交方針

 ニクソンはセオドア・ルーズヴェルトに連なる、現実主義政治(Realpolitik)の実践者だった。


 ――In Nixon's perception, peace and harmony were not the natural order of things but temporary oases in a perilous world where stability could only be preserved by vigilant effort.

   (ニクソンの認識では、平和と調和は事物本来の秩序ではなく、危うい世界における一時的なオアシスにすぎない。そこでは注意深い努力のみが、安定を保つことができる)

 

 かれはウィルソンを尊敬しながらも、主義ではなく国益を基盤として政策を決定した。

 外交においては、選択肢の多い者が有利である。ニクソンは中ソ対立を利用し、中国と接近することで、ソ連の態度を軟化させた。

 1972年、ニクソン訪中により上海コミュニケが発出され、米中は和解した。

 ニクソンの現実主義外交、勢力均衡論は、英仏中の伝統的な外交方針に近く、米国民や歴代大統領にはなじみのないものだった。ウォーターゲートによりニクソンは退陣したが、米中ソの緊張緩和は続き、米国の対共産主義政策が改めて問われることになった。

 

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 ニクソン就任以降、デタントが進行した。西ドイツ・ブラント首相の東方外交により、ベルリンの対立は収束した。一方、米国はアラブ諸国に圧力を加え、ソ連の影響力を一掃した。

 しかし、デタント政策は保守派、リベラルの双方から反発を招いた。

 保守派は、ソ連に対する融和姿勢の点からニクソンを批判し、リベラルは、民主主義普及の使命を放棄した点を批判した。

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 ◆レーガン

レーガンニクソンとは全く異質の大統領であり、外交方針も180度転換した。

・かれはウィルソン直系の理想主義者であり、米国価値観の普及を目指した。ソ連は悪の帝国であり、かれらはいずれ社会主義の間違いを認めるだろうと考えていた。

レーガンは、ゴルバチョフやアンドロポフらと面と向かって話すことで、かれらを社会主義から改心させられると信じていた。

 かれの夢は、ソ連首脳をアメリカの民家に招くことだった。

ニクソンは、なぜかれが大統領になれたのか、なぜこのような無教養な人物が、冷戦終結という偉業を達成することができたのか、驚くべきことであると評している。

レーガンは核なき世界を強く望んでいた。

 そして、ソ連の核開発を打ち砕くため、核軍備を強化した。

・悪の帝国を打ち破るために、かれはムジャヒディンやニカラグアのコントラ(反共反政府民兵)、中南米の極右組織、反共軍事政権を支援した。レーガン外交政策は、ウィルソン風の理想主義に、地政学と勢力均衡の考えを組み入れたものだった。

 こうした反政府組織や軍事組織を支援することで、「目的は手段を正当化できるのか」という疑念が世論に生じた。

レーガンの対決姿勢は、ソ連の経済状況を追い詰め、結果的に崩壊に導いた。

 レーガン自身は、親しみやすいと同時に、本心に近づきにくい人物だったという。

 

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 レーガンのSDI(戦略防衛構想Strategic Defense initiative)は効果を生んだ。

 ゴルバチョフは、自由化と情報公開がソ連を近代化し、共産党を立て直すだろうと考えていた。しかし、その予測は外れ、ソ連は急速に崩壊した。

 ソ連社会の崩壊を最もよく自覚していたのは党のエリートと情報機関だった。民主化運動だけでなく、かれら支配者層が存続をあきらめた点もまた、ソ連崩壊の主原因である。

 キッシンジャーの見解では、米国の冷戦政策は概ね適切だった。理想主義と現実主義の間を行き来はしたものの、結果的にソ連の拡大を阻止し、内部崩壊させることができた。

 

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 ◆キッシンジャーのまとめ

 新しい世界において、米国は再び選択を迫られている。特別な国として、十字軍としてふるまうのか、国益に基づき行動していくのか。

 ポスト冷戦時代は、対立軸が消え、より難しいかじ取りを求められる時代になるだろう。

 以下、キッシンジャーの予測には説得力があり、またよく現実を観察していることがが見て取れる。

 

・ロシアには民主主義の伝統がない。為政者は引き続き共産党エリートが務めるだろう。民主主義者が拡大主義者、帝国主義者であることもあるだろう。

NATOとEUは、アメリカがヨーロッパと接続する上で今後も不可欠となるだろう。

・しかし、旧ソ連諸国をNATOやEUに無差別に加入させることは、ロシアを警戒させるだろう。衰退した帝国は、自己の権益を復活させ、拡大させようとして不安定化を招く。

・国同士の共通意識が希薄なアジアでは、EUのような共同体は生まれず、古典的な勢力均衡が継続するだろう。

・米国にとっての脅威は、アジア、ヨーロッパを単一の強国に独占されることである。潜在的な脅威は、ロシアと中国である。

・アメリカは世界最大の国力を持つが、その力は無限ではない。

 民主主義に基づく普遍的な集団安全保障制度を築くことはおそらく不可能だろう。

・民主主義は普及しているとは言えない。民主主義は、国民の均質性を前提とする。そうでない国家では、意見の多様性は即座に政権の奪い合いと分裂、内戦に直結する。

・今後、米国は自国の限界を認識し、国益に沿った外交を行う必要がある。

・米国は理想主義の国である。19世紀のイギリスのように、純粋に国益に基づいて行動することはできないだろう。人権や民主主義等、普遍的な価値に基づく協調を目標としつつ、あくまで国益を軸として政策を定める必要がある。

 

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『Diplomacy』Henry Kissinger その4

 ~東西冷戦~

 

 ◆朝鮮戦争に関する米ソの誤算

・米国は、ソ連との全面戦争あるいは東欧侵略以外を想定していなかった。

ソ連は米国の理想主義、「価値」の役割を軽視していた。

 北朝鮮が韓国に侵攻すると、米国はすぐに動員をおこなった。あわせて、フランスのインドシナ占領を支援したが、これは毛沢東を警戒させた。

 朝鮮戦争のような、米国権益の辺境で攻勢があった場合どうするべきなのか。米国はその後もベトナムで悩むことになった。

 米国は、北朝鮮の侵攻をソ連の指示だとみていたが、そうではなく、金日成の意志が原動力となっていた。

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 ◆スターリン以後

 スターリンは死の直前に、東欧をめぐって西側に妥協しようとした。しかし、実現することなく死んだ。

 後継者たち……マレンコフ、モロトフ、カガノヴィチ、フルシチョフらは、大粛清の影響から猜疑心に取りつかれており、西側への妥協政策ができる状況ではなかった。

 西側においても、スターリンによる和解案に耳を傾けたのはチャーチルだけだった。

 スターリンは、西側諸国も自分と同じように、イデオロギーではなく「現実政治」に則っていると誤解していた。

 実際は、アメリカは終戦直後のスターリンの頑固さに反発し、理想主義に基づいて動いているのだった。理想主義の世界では、ソ連との妥協はありえなかった。

 1955年のジュネーブサミットで、ドイツ統一問題は棚上げされた。米ソを軸とする冷戦体制が確立し、ある程度の安定がもたらされた(デタント(雪解け))。

 しかし、フルシチョフは在任中様々な手段で西側の封じ込めに挑戦し、結果ソ連国益を損なった。

・アデナウアーは偉大な政治家と評価を受けている。かれは、ドイツ統一を棚上げし、西側との関係強化を指向した。

 統一されたドイツは、必然的にヨーロッパの脅威となることをアデナウアーは認識していた。

 

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 ◆スエズ動乱

 スエズ戦争について。エジプトの大統領ナセルは、1956年、アラブ・ナショナリズムを鼓舞し、スエズ運河の国有化を宣言した。それ以前から、ソ連は中東での権限強化のためエジプトに武器を援助していた。

 スエズ問題をめぐって、米国と英仏は分裂した。英仏は、従来の植民地権益が奪われることを恐れ、武力介入を主張した。米国は、スエズ問題を植民地的なものととらえ、英仏の介入を懸念した。

 エジプト自身はソ連の衛星国になろうとしたわけではなく、あくまで冷戦を利用してアラブの独立を達成しようとしていた。

国務長官ジョン・フォスター・ダレスは、非常に理想主義的、宗教的な人物だった。現実主義のイーデンはかれを忌避した。

・米国は倫理に基づいて英仏イスラエルの武力介入を阻止したが、ベトナム戦争で仕返しをされ、単独で武力行使をすることになった。

 また、スエズ戦争と同時期のハンガリー動乱との間で、米国の行動には一貫性がない。

ソ連は武器援助の形式を利用し、その後も第三世界への介入をつづけた。

 

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 ◆ハンガリー動乱

 スエズ戦争と同時期に起きたハンガリー動乱において、米国はソ連の武力介入に対し何も手だてを打たなかった。

 武力の行使による利益獲得を非難する米国の倫理からすれば、ハンガリーへのソ連の介入は正当化できないもののはずだった。

 米国は、英仏には倫理を要求し、一方、自国は、直接国益の関わらないハンガリーのために犠牲を出すことを拒否した。

 

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 ◆ベルリン危機

 西ドイツの飛び地となっていたベルリンをめぐって、1958年以降、緊張が高まった(ベルリン危機1958~1961)。

 東ベルリンから西ベルリンへの流出が続いており、東ドイツは危機感を抱いた。フルシチョフベルリンの壁を建設したが、ケネディは特に反応しなかった。

 東西どちらも、ベルリンを明け渡すことには納得せず、問題は棚上げになった。

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 ◆西側諸国について

 イギリス:チャーチルは自国がもはや覇権国家でないことを知っていた。イーデンはそれに気付かず、スエズ戦争で失敗した。マクミラン首相以降、英国は米国に従属することで自由を得ることにした。

 フランス:伝統的に現実政治に則った国であり、米国の道徳的な外交観には同調しなかった。あくまでフランスの国益が問題だった。フランスの地位向上のために西ドイツと手を組み、ソ連の進出を抑止しようとした。また、ド・ゴールは米国に対して距離を置いた。

 合衆国、フランス双方の要求は通らなかった。冷戦時代には、共通目標に基づく協調が可能となったが、それは一時的なものだった。冷戦終了後、国益ナショナリズムの衝突が復活した。

 

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 ◆ベトナム戦争

 ベトナム戦争の契機は、トゥルーマンアイゼンハワーにある。

 トゥルーマンは封じこめ政策を提唱し、さらにアイゼンハワーは自由国家と民主主義を守るというウィルソン主義を推し進めた。

 米国は自由国家を守るためにインドシナに介入したが、結果は理想とはかけ離れたものになった。

 米国は自国の権益を離れて、価値や倫理に基づいて行動した。しかし、そもそもベトナム共産主義化が米国の脅威になるのか、ベトナムソ連の傀儡なのかという前提を検証することがなかった。

 トゥルーマン時代には、「ドミノ理論」の萌芽が見られた。

 政治家たちの間で、ミュンヘン会談の教訓が強迫観念として残っていた。それは、「敵は早いうちにあらかじめ排除しなければ巨大化する」というものである。

 トゥルーマンは、フランスのインドシナ支配を支援しつつ、現地人の独立を促すという矛盾した政策を実施した。

 フランスはゲリラ戦争に敗れ撤退した。しかし、米軍人の南ベトナム軍に対する教育は、伝統的な戦争に即したものだった。

 チャーチルド・ゴールは、東南アジアに権益はないとみなし、米国に協力しなかった。SEATOは東南アジア諸国と米英仏との反共同盟だったが、英仏が拒否権を行使したため、一度も統合作戦は行われなかった。
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[つづく] 

 

Diplomacy (Touchstone Book) (English Edition)

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『Diplomacy』Henry Kissinger その3

 ~戦間期から冷戦の始まりまで~

 

 ◆ヒトラーの台頭

 ヒトラーが台頭し、ドイツはヴェルサイユ条約を放棄した。戦勝国は分裂し、国際連盟は、1932年の満州事変で既に明らかになったように、無力だった。

 キッシンジャーは、イタリアのエチオピア侵略を黙認してでも、ドイツ包囲網を築くべきだったと考える。実際はその逆になり、英仏はイタリアに経済制裁を課し、ドイツと妥協した。

 ストレーザ戦線は、英仏イタリアの連帯を目指すものだったが、イギリスがドイツと単独宥和政策(海軍協定)をとったことにより失敗した。

 ヒトラーヴェルサイユ条約を盾にラインラント進駐とオーストリア占領、ズデーテン地方併合を実行した。しかし、倫理規範……民族自決の原則を破ったことで、英仏からの信用を完全に失った。これがヒトラーの破滅の兆候となった。

 ラインラント進駐に対しフランスが進軍していれば、ドイツは即時撤退し、ヒトラーの脅迫外交は終結していただろうと著者は考える。

 ミュンヘン会談は、当初歓迎されたが、ドイツがチェコに進駐すると評価は一変した。

 キッシンジャーの考えでは、ヒトラーの台頭を許したのは理想主義と集団安全保障である。

 キッシンジャーが勢力均衡と現実主義を重視する原点は、ヒトラーにあるのではないかと推測する。

 

民族自決、諸国の平等の原理を固守したため、ドイツのドイツ人居住地域併合と再軍備を許した。

・たとえ国際連盟の理想に反していようと、イタリアと妥協し、ドイツの復活を阻止するべきだった。

 

  ***

 ◆英仏ソの不和、第2次世界大戦

 スターリン共産主義者だが、外交においてはリシュリューと同じく現実主義者だった。

 ナチズムと共産主義の協調はありえない、と考えた民主主義諸国の方が、イデオロギーに基づいた外交を行っていたといえる。

 ミュンヘン会談は、ドイツの東方膨張を容認するように思われた。スターリンは、英仏との同盟に懐疑的だった。ソ連に対しドイツをけしかけて、英仏だけが逃げる可能性があったからである。

 スターリンは自国の安全と領土の奪回を達成するため、独ソ不可侵条約を締結した。

  ***

大衆社会の世紀が、ヒトラースターリンという1人の人物によって振り回されたのは皮肉である。

・フランスはマジノ線にこもったまま何もせず、やがてドイツ軍はマジノ線のないベルギーを通ってフランスを侵略した。

ソ連フィンランド戦争に対して、英仏はフィンランドを支援しようとした。独ソ双方を敵にまわしたという点で、英仏は現実主義を見失っていた。

スターリンヒトラーが合理的に行動すると考えていた。最終目標がロシア侵略であることはわかっていたが、二正面作戦を開始するとは予想できなかった。

ヒトラーソ連侵攻の賭けに出た結果、負けた。

スターリンは外交においては忍耐強く、現実主義的である。一方、ヒトラーは戦争を求めており、辛抱ができない。

ヒトラーには原則があるが戦略がなく、スターリンはその逆である。

  ***

 

 ◆戦後の外交

 第1次大戦以降、孤立主義的だった合衆国を参戦に導いたルーズベルトに関して、キッシンジャーの評価は大変高い。

 長く孤立主義的だった国民の世論を、ルーズベルトは談話や外交によって徐々に変えていき、対日参戦前夜にはヒトラーを打倒すべきとの意見が多数となっていた。

 ルーズベルトヒトラーが国際秩序の障害になり、またドイツの覇権を許せば米国にも影響が及ぶと考えていた。かれはレンドリース法により英ソ中を支援した。

 米国の参戦を後押ししたのは、枢軸国の強硬な態度だった。

  ***

 米英ソそれぞれの外交政策について。チャーチルは伝統的な勢力均衡を、スターリンは国際共産主義とロシアの拡大政策を主張した。

 ルーズベルトの構想は、ウィルソンの理想主義に続くものである。

・「平和愛好国」米英中ソにより、攻撃的国家日独伊およびフランスを管理するという「4か国警察国家」のアイデアを考案した。

・英仏の植民地主義は廃止する。

 しかしルーズベルトの国際秩序構想とスターリンの「現実政治Realpolitik」は徐々に乖離していき、東欧支配をめぐり意見は分かれた。ルーズベルトスターリンに譲歩した。

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 ◆冷戦の始まり

 ルーズベルトが死ぬと、米英ソの溝は深まっていった。著者はトゥルーマンを高く評価する。かれはルーズベルトを継承したが、スターリンの拡大主義には譲歩しなかった。

 徐々に米ソの相互不信は高まっていった。スターリンは、西側が反発することを予想できなかった。

  ***

 

 ◆封じ込め政策

 封じこめ政策の開始について。

ジョージ・ケナンは、ソ連と民主主義国との対立は本質的なものであり、封じこめる必要があると主張した。

トゥルーマン・ドクトリンは、イデオロギーの対立を明確化したもので、冷戦を決定的にした。

・米国は現状の勢力圏を保持し、ソ連を封じ込めるため、自由と民主主義を理想とする外交方針をとった。これはウィルソン主義の再来であり、その是非について現在でも論争を招いている。

・軍事力と経済力による影響力の確保……マーシャル・プランとNATO

・米国は西欧諸国との軍事同盟であるNATOを成立させたが、既存の同盟ではなく、原理に基づく集団安全保障だと主張した。

ソ連は東欧各国において共産党や反乱分子を操り傀儡政権を成立させていった。

 

 一方、封じ込め政策に対しての反論には次のようなものがあった。

・軍事力の差がある終戦直後のうちに、ソ連の拡大主義を抑止するべき(チャーチル)。

・原則に基づいて他国を支援することは米国の国益にならず、無用なコストになる(ウォルター・リップマンら現実主義者たち)

・東西は政治思想が異なるが、共存できるはずだ(リベラル派)。

 

 このようにして米国は、戦略ではなく、価値を重んじる理想主義に方向転換した。

 冷戦は、共産諸国の体制変革を目的としていた。自由と独裁との戦い、善と悪との戦いが主眼となった。

 チャーチルは、完璧な理想を求める米国の戦略が失敗すると予測していた。

 英国は歴史上、多くの不完全さと妥協することで事態を解決してきたからである。

 

ジョージ・ケナンの予測……共産主義体制は自壊するだろう。

・リップマンの予測……封じこめ政策により米国は消耗し、国益を見失うだろう。

 

 [つづく]

 

Diplomacy (A Touchstone book)

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『Diplomacy』Henry Kissinger その2

 ~ウィーン体制の終焉から第1次世界大戦まで~

 

 ◆ウィーン体制の終焉

 ナポレオン3世とビスマルクの時代……2人の指導者がウィーン体制を終わらせた。

 ナポレオン3世はイタリアのカルボナリ(統一運動家)出身であるため、欧州各地のナショナリズム運動を支援した。しかし、最終的に宿敵であるプロイセンを利することになり、敗北によって退場した。

 ナポレオン3世の外交は、国益無視、革命理念偏重、支離滅裂の評価をくだされている。かれは大衆の欲求を基盤にしたが、最後は大衆から見放された。

 ビスマルクプロイセンを統一し、列強の一角となった。プロイセンの台頭は、フランスの地位を低下させた。

 ビスマルクの「現実政治(Realpolitik)」は、パワーの分析と使用に基づいて外交方針を定めるものである。自己抑制を必要とする外交方針を、かれの後任者たちはコントロールすることができなかった。

  ***

 

 ◆勢力均衡の行き詰まり

 ビスマルクの築いた勢力均衡は、やがて複雑化し、利害の対立は収束不能になった。

・ドイツは統一により大陸の支配的な勢力となりつつあった。ドイツの台頭は列強の警戒を招いた。

バルカン半島をめぐってロシアはオーストリア、イギリスと対立した。

・ロシアは領内の非スラブ人を抑圧するために、領土拡大を続けなければならなかった。ロシアは、領土を常に広げて安定させなければならないという脅威に囚われていた。

・1878年、ビスマルクの呼びかけによるベルリン会議により、バルカン半島をめぐる対立は先延ばしされた。ビスマルクは三帝同盟によるロシアとの接近がドイツ安定のかぎと考えた。

ディズレーリは、ビスマルクに連なる現実政治の追求者である。一方、グラッドストンは、公正さや人道に基づいて外交を行う、ウィルソン型の政治家である。

ビスマルクの後任者は、勢力均衡のための調整ができず、単純な軍備増強に明け暮れた。

 勢力均衡体制は、覇権国家の台頭を防ぐことはできたが、ヨーロッパの平和を維持することはできなかった。

・民主主義諸国においては世論が大きな影響を持つようになった。世論が排外主義や好戦主義にとらわれた場合、政治家はこれを拒否することができず、外交上の選択肢は制限された。

・ロシア、ドイツといった専制国家でも、民族主義勢力や、議会の過激な代議士たちの圧力が外交に圧力を加えた。

 勢力均衡を維持するための微妙な調整や各国の選択肢は徐々に狭まっていき、最後は全体戦争に陥った。

 

  ***

 ◆第1次世界大戦の起源

 第1次大戦の責任者を追求するのは困難だが、ドイツとロシアがその多くを負っている。

・ウィルヘルム2世は、誇大妄想にとりつかれた愚かな君主という評価を受けている。

・ドイツの外交は自ら敵をつくり、露仏の同盟を成立させた。さらに、ドイツの拡大政策を警戒した英国と露仏が同盟し、三国協商が成立した。

・英国は栄光ある孤立splendid isolationから脱して、ドイツ、ロシアを封じるために日英同盟、英仏同盟を結んだ。

・ヨーロッパ諸国は、軍事技術の発達が何をもたらすかに気が付いていなかった。かれらは全体戦争を軽く考えていたという。

・ロシアの外交官は、ドイツとの戦争がロシアを亡ぼすと警告したが、皇帝が聞いたかは定かではない。

 

  ***

 ◆総力戦

 第1次大戦は、軍事動員が外交を無効化してしまった例となった。セルビア事件をきっかけにオーストリアセルビアは緊張状態となった。

 しかし、戦争の直接的なきっかけは、ドイツとロシアの動員である。かれらは直接的な利害対立者ではなかった。

 ヴィルヘルム2世、ニコライ2世ともに、戦争は回避されるだろうと考えていた。しかし、過去の軍事的危機と異なり、このときは実際の動員が伴っていた。

 もし、外交的な手段で各国の妥協が成立していれば、戦争は避けられただろう。第1次大戦は、各国が同盟関係を律儀に守ったために回避できなくなった。

・ドイツ軍はシュリーフェンプランに基づいて機動した。つまり、ベルギーを侵犯しフランスを撃退した後、ロシアを攻撃するというものである。

・ロシア軍も、ドイツに対する全面侵攻という攻撃計画以外を持っていなかった。

・イギリスは、ドイツの覇権を阻止するためにフランスに肩入れし参戦した(直接の理由はベルギーの中立侵犯)。

・ドイツとロシアの戦闘が始まったとき、戦争の発端であるオーストリアはまだ軍事動員を実行できていなかった。

 いったん戦争がはじまると莫大な犠牲が生まれ、各国は戦争を止めることができなくなった。

 

  ***

 ◆ヴェルサイユ体制の欠陥

 英国の外相エドワード・グレイはウィルソン大統領を説得し米国を参戦させた。

 ウィルソンは休戦に伴い、パリに向かった。かれは欧州の勢力均衡を否定し、集団安全保障による国際秩序を提唱した。かれは、民族自決(self-determination)と民主主義こそが平和な体制をつくり、国際秩序を達成するだろうと主張した。

 ウィルソンの「十四か条の原則」は国際連盟の根拠である。

 しかし、それは国際政治の実態とかけ離れており、また米国のメキシコに対する行動も、ウィルソンの思想とはかけ離れていた。

 ナポレオン戦争後のウィーン体制では、諸国はフランスの封じ込めという点で団結していた。

 しかし、ヴェルサイユ体制には勝利者同士の団結が欠けていた。

 ロシアは消滅し、フランスは復讐を計画し、イギリスは大陸から離れ、米国は国際連盟から距離を置いた。

 ヴェルサイユ条約はフランスの立場を弱め、ドイツの立場を強くした。

・ドイツに対する一方的な戦争犯罪認定

民族自決と、ドイツ=オーストリア分割の矛盾

 

  ***

 ◆ドイツ封じ込めの難しさ

 ヴェルサイユ体制における集団安全保障はうまく機能しなかった。これは、国連においても同様である。

 各国の利益が一致することはほとんどないからである。

・ロシアの消滅、ポーランドの誕生、東欧諸国の独立は、ドイツの地位を高めた。ポーランドの存在は、ドイツ、ロシア双方にとって邪魔だった。

・イギリスは、フランスの覇権国家化を警戒し、またドイツを対ソ障壁と認識した。

  ***

 シュトレーゼマン政権の下、ドイツは徐々に国力を取り戻していった。

 ドイツへの強硬政策を進めるのはフランスだけになり、英米はドイツ復興を支援した。ソ連はまだ革命外交の時代だったが、国家生存のためラパッロ条約によりドイツと協定を結んだ。

 1924年ロカルノ条約は、英仏独・ベルギーの国境線を保持し、集団安全保障を行う取り決めである。この条約はドイツの東方拡大につながった。

 シュトレーゼマンの人徳により、パリ不戦条約等、大陸には秩序が戻るかに思われた。

 しかし、ヴェルサイユ体制の構造的な欠陥は補えなかった。

ヴェルサイユ体制の不備……ドイツの相対的優位、集団安全保障の失敗、逆効果となった賠償金、東欧の空白化

・条約のとおり英仏独が軍縮を行えばドイツは優位に立つ。しかしフランスが軍縮を拒めば、ドイツも武装解除を維持する正当性がない。軍縮は各国平等が建前だからである。

・シュトレーゼマンの政治方針はドイツ拡大主義だが、平和的手段と外交を遵守する点で、ヒトラーとは全く異質である。

  ***

[つづく]

 

Diplomacy (A Touchstone book)

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