正規軍に加えて、大量の義勇兵が徴発された。多くの男女学生、農民、映画関係者、文学者たちが義勇兵として戦争に参加した。
しかし、モスクワにおいてはその大多数が志願であり、だれもが前線に行きたがった。
従軍作家シモノフは、前線の様子が、かつてのノモンハンとは全く異なることに唖然とした。ソ連軍の飛行機は次々撃墜され、兵隊は虐殺され、軍はドイツ軍に対してみじめに負けていた。
しかし、かれは事実を公表することができず、善戦ぶりを褒めたたえる記事を書いた。
・体育学生たちは特別な部隊に召集され、特殊部隊としての訓練を受けた。かれらは高い水準の練度を維持したため、結果的にその他の義勇軍よりも長生きした。
多くの義勇軍は、貧弱な装備と低い能力のまま前線に送られ、ドイツ軍に殺戮された。
・女性は看護婦としてだけでなく、兵士、パイロットとしても活躍した。女性パイロットの活躍は特に顕著であり、ソ連邦英雄になった女性が多数いた。
同時に、女性たちは戦場で性的欲求の対象となり、セクハラ、暴行、性的搾取が蔓延した。
・作家、映画関係者、芸能関係者、音楽家たちは、プロパガンダ活動に従事するか、または塹壕を掘った。
工場は24時間体制で稼働した。
・スターリンは軍人たちを厳しく取り締まった。政治委員、NKVDによる専門督戦隊、懲罰部隊を編成し、指揮官から兵隊まで、まんべんなく処罰した。
多くの高級軍人が失敗、無能、臆病、または不運のために逮捕され処刑された。包囲された者は、人間の盾になるのを防ぐため、家族も呼ばれて処刑された。捕虜になった者は裏切り者として処刑された。
命令270号、命令227号を根拠に、各部隊に懲罰部隊が作られた。部隊はさまざまな規律違反者によって構成され、危険な前線に送られた。
モスクワの防空態勢構築に関しては、当初はレニングラードを参考にしようと考えられた。しかし、冬戦争におけるフィンランド空軍の攻撃は微力だったため、あまり参考にはならなかった。
英仏を参考に、地下シェルター、空襲警報、建物のカモフラージュ、灯火管制等が整備された。
英本土空襲とは異なり、ドイツの空爆は小規模だった。これは、ロシアの諸都市まで距離があったこと、滑走路の質が悪かったことによる。それでも、モスクワだけで2000人以上が死んだ。
スターリンはモスクワの防空態勢を確保するために、前線に多大なコストを強いた。やがて、赤色空軍がドイツ空軍に対し優勢に立った。
3
モスクワ防衛線の指揮はSTAVKA(ソ連軍総司令部)およびGKO(ソ連国家防衛委員会)がとった。
1941年10月、ドイツは赤軍の防御を突破し、包囲を行った(ドイツによる「タイフーン作戦」)。
ヴァジマ、モジャイスクといった都市がドイツ軍に包囲され、陥落していった。
スターリンは当初、包囲の報告をした将軍と偵察パイロットを虚偽としてNKVDに逮捕させようとしたが、事実と判明すると、当該将軍は昇任した。
多数の義勇兵が前線に送られ、大量死した。
ドイツ軍がモスクワに接近するにつれて、市内でもパニックが起こった。NKVDは、スターリン直接の命令により敵占領後の抵抗活動を準備した。また、一部の技師はスターリンのための秘密の地下壕を郊外に建設した。
後年、秘密の地下壕は観光名所となり、訪れる人は「建設者が口封じのために全員射殺された」という伝説を信じた(事実ではない)。
[つづく]
Moscow 1941: A City & Its People at War: A City and Its People at War
- 作者: Rodric Braithwaite
- 出版社/メーカー: Profile Books
- 発売日: 2010/12/09
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る