うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ソドムの百二十日』サド

 フランスの小説家サドによる幻想文学

 本書の構成は以下のとおり。

 

・背景

・登場人物

・計画

・訓示

・日課次元

・記録

 

 計画によって集められた少年少女は、4人の変態権力者の変態行為の犠牲になる。あわせて、4人の中年女が自分の経験した変態行為を話して聞かせる。

 ひたすら糞尿と変態行為の記録が続き、最終的には『悪徳の栄え』のように拷問と殺人に至る。

 変質大会に関して、割と計画が構成されているのが笑いどころである。

 おそらくこれが、作者の作りたかったものなのだろう。

 異様なオブジェのような本で、わたしのような素人には、読み進めるのは大変である。中間部はほとんど読み飛ばした。

 4人の変態権力者(公爵、司教、法院長、徴税請負人)は、1人を除くと、性的不能に近い。

 中年女の回想でも、変態行為に執着する性的不能の人物が多数現れる。何かの関係があるのだろうか。

 

 権力者たちの、悪徳と非道を追求する哲学、奴隷を苦しめれば苦しめるほどよしとする哲学が挿入される。

 糞尿趣味の者は、汚ければ汚いほどいい、と自説を開陳する。

 

ソドムの百二十日

ソドムの百二十日

 

 

「ワイルド・レンジ 最後の銃撃」

 制作:2003年

 監督:ケビン・コスナー

 暗い過去を持つ牛追いたちが、悪徳牧場主と主が雇った殺し屋を倒す映画。

 ケヴィン・コスナーとロバート・デュバルの復讐は筋が通っており、村人たちも協力する。

 コスナーと独身女性との交流が、特に後半はくどい。これを縮めれば10分くらい短くできたのではないか。

 戦闘……コスナーの連射や、精密射撃を見ることができる。

 西部劇の戦闘パターン……敵は分散して、一部は通りの裏に回る。住民が人質にとられる。

 

 

『続・突破者』宮崎学

 『突破者』を出版した後の著者の活動について自ら回想する本。

 

 宮崎学は、現代日本をとりまく抽象的な正義を否定する。それは清潔な市民による正義であり、社会から不潔なものを全て抹消しようとする世界観である。

 

 平沼騏一郎が司法官僚の時代、かれは被差別部落を管理するために事業資金を管理し、部落をコントロールしようとした。

 

 ――言論活動が、「正義」と「真実」なんていう空疎なかたちの支持をかき集めるキャンペーンになっていけば、政治活動も単なるキャンペーンになってしまい、具体的な目標は二の次にされてしまう。

 

 著者の経歴……暴力団組長の子供として生まれ、早稲田に入学後、学生運動に加わって中退、その後実家の解体業を受け継ぎ、グリコ森永事件では「キツネ目の男」として重要参考人となった。

 著者は徹底的に反体制の立場をとる。

 自らを、「やましいところのない清潔な正義の人間」と考える体制の人間、特に官僚にを厳しく批判する一方、空疎な言葉を唱え、また現実を見ようとしない左翼勢力に対しても批判を加える。

 

  ***

 著者の考えは強烈に偏ったものだが、納得できる点も多々ある。自分の考えが「公正中立である」と装わないのは誠実と考える。

・盗聴法は市民に恐怖と不安を植え付けるものとして反対運動を行った。盗聴法で実際に犯罪予防になるのは一部で、主要な効果は市民を委縮させることにある。

暴力団対策法は、ヤクザの存在自体を悪と決めつけて排除する。これはヤクザに対する差別である。「やめればいい」というが、そうすればかれらは生きていけなくなる。

・同和行政は、「人権マフィア」と行政の戦いという単純なものではない。そもそも同和事業は、「被差別部落に特権を与えることで差別を解消する」という国の方針に基づくものである。特権が不公平な分配によって利権となるなら、それは受益者側の改善が必要である。

・共同体の解体に伴い部落差別、在日差別が薄まった一方、インターネット等での差別意識は強まっている。

・司法は検察からも独立しているべきである。また、弁護士は権力から独立していなければならない。暴力団対策や「住専不良債権回収等では、裁判所と検察、弁護士の一体化が唱えられたが、これは権力分立を脅かすものである。

・日本のエスタブリッシュメントは強固であり、学生運動やデモでは崩れなかった。政治家は皆、利益集団である。国はすべての事象を「善対悪」の構図に簡略化し、国民を扇動する。

中坊公平は京都のいい家に生まれた。金に汚く、住専にまつわる政府の失策を棚にあげて、借り手側を悪人と既定して取り立てをおこなう。

 

  ***

 暴力団対策法について……

 暴力団を排除するなら、構成員だった者をどのように社会に復帰させるかが重要であると考える。かれらが皆単独の強盗犯や窃盗犯になってしまっては意味がない。

 では、ヤクザやギャングの全くいない社会が実現するのかと考えると、とても起こりそうにない。

  ***

 著者の思い入れは、学生運動の時代にあるようだ。現代の人間はみな薄っぺらになった、と述懐するが、わたしのような薄っぺらな若者は、ただそうなのか、と思うしかない。

  ***

 抽象的な市民観ではなく、中国の秘密結社「幇」のように、各コミュニティが独自の規律に基づき、ルールを定めていくべきであると主張する。

 

 ――あらゆる社会集団が法令順守より自力解決を優先し、感度の高い自治能力を育てていこうとするとき、そのときこそ、差別を無限にのりこえていこうとする途が開けてくるのではなかろうか。

 

 差別は絶対になくならず、人が人を差別する心も絶対になくならない。重要なのは差別行為を常に糾弾していくことである。

 

 ――石原やその支持者が言う「誇り高い日本人」などと言うのは、所詮は自分を一段高いところにおきたい下卑た根性がつくりだしたフィクショナルな概念にすぎない。

   ……わしは常々、日本が全体主義に向かうときそれはアジアに対する排外主義を伴うと考えてきた。石原慎太郎の存在はそれを担保するものであり、それに対抗するのはイデオロギーではなくそこに生きる人間の持つ様々な文化が複合しながら発展していく生活者の視点なのではないかと最近考えている。

 

 法律は社会生活に完全適合しているわけではない。わたしたちは常に法律を大なり小なり侵犯している。

 権力も、すべての法律違反を取り締まることはできない。いっさい法律違反をしないで生きるということはできない。

 

 ――まず、権力に対してラジカルに戦う者は、身辺などキレイにする必要はない、ということがわかっとらんなあ。

 ――どこの世界も均質化が進み、いろいろな世界でシステムばかりが完備していく。一方で、張りぼての中には官僚たちが息を潜めている。彼らには名がない。機構や役職に名があるだけだ。時折、事件が起こると、運の悪いやつがひょいと顔を出す。普段は、せっせと機構としてシステムを通して表社会を操作している。だれの支配というのでもない、現代は匿名の支配社会である。

 

続・突破者

続・突破者

 

 

 ◆前作